藪田村(読み)やぶたむら

日本歴史地名大系 「藪田村」の解説

藪田村
やぶたむら

[現在地名]氷見市薮田やぶた

北は小杉こすぎ村、西は北八代きたやしろ村、南は阿尾あお村、南東は富山湾に面する。大部分が丘陵山地で、中央部の藪田川沿いの谷内に小平野が開ける。海沿いを浜往来(海浜道)が通り、集落は海岸部の浜出はまでと、内陸部の谷内出やちでに分れ、浜出に属する垣内として南から八幡はちまん栗原くりはら川淵かわぶち阿字野あじの中央ちゆうおう下浜しもはまあじさきが、谷内出に属する垣内として石田いしだ中谷内なかやち奥谷内おくやちのほか、近世の開拓村見田窪みたくぼがある。正保郷帳では高三八〇石余、田方一〇町五反・畑方一四町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高四一四石・免五ツ二歩、小物成は塩竈役一一匁・山役二一八匁・蝋役三匁、網役一六一匁六分(ほか四〇七匁四分退転)、猟船櫂役四〇匁(ほか八〇匁退転)、釣役一五匁(ほか二〇匁退転)、塩役二五匁六分出来(三箇国高物成帳)。加納組高覚帳(円仏家文書)では高四一四石、二石五斗は延享元年(一七四四)の手上高で、合せて四一六石五斗、明暦二年(一六五六)の百姓一三・頭振三〇、ほかに神主一・医師一。


藪田村
やぶたむら

[現在地名]岐阜市薮田やぶた須賀すか江添えぞえ市橋いちはし下奈良しもなら

今嶺いまみね村・つめ村の南に位置し、集落は北境を半円を描いて流れる論田ろんでん川に南接し、南境には荒田あらた川が東西に流れる。大永元年(一五二一)一二月一七日「やふた」の左近兵衛・助九郎親子は、立政りゆうしよう寺に一段の地を三貫文で売寄進している(「左近兵衛売寄進状」立政寺文書)。慶長五年(一六〇〇)八月、織田秀信は「爪藪田」に、池田輝政は「藪田村中」に禁制を下している(円福寺文書)


藪田村
やぶたむら

[現在地名]姫路市豊富町御蔭とよとみちようみかげ

栗橋くりはし村の南に位置し、西はいち川を挟んで上砥堀かみとほり村。中世には蔭山かげやま庄に含まれた。応永三二年(一四二五)九月日の蔭山庄惣田数注文案(九条家文書)に同庄を構成する二四の村と名の一つとして藪田村とみえ、田数は六町二段余であった。天正九年(一五八一)当村は藪田山を曾坂そさか砂川すながわとの入会とするよう命じられたが(同年三月二八日「寺沢広政折紙写」高馬文書)、同一四年藪田山の用益をめぐって曾坂との間に争いが起きている(同年四月一一日「助大夫等連署起請文」・同年四月一四日「小寺休夢斎折紙」同文書)


藪田村
やぶたむら

[現在地名]岡崎市藪田町

矢作川の沖積地左岸に位置。北は上里かみさと村、東はくち村、南は大樹寺だいじゆうじ村、西は大門だいもん村に接する狭い地域である。

松平親氏に討たれた藪田忠元は藪田より出た。のち忠元の残党が藪田にいて岩津いわづの中根大膳に属したが、松平信光に討たれたという。近世を通じて岡崎藩領、額田手永に属した。享和二年書上には高一六六石余、人別六八人、うち男二八・女四〇。寛政八年(一七九六)の大洪水で青木あおき川堤が破れ、田畑がことごとく流失した(岡崎市史)


藪田村
やぶたむら

[現在地名]池田町藪田

魚見うおみ川下流東岸、山裾の湿地帯に開けた村。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高二六七・八石が記される。正保郷帳によると田方二二九石余・畠方三八石。享保六年(一七二一)の池田郷中村々明細帳の写(片山家蔵)では、新田一一・三三石が記載され、反別一八町六反余(うち畠地一町六反余)。家数三四(本百姓一六・水呑一八)、人数一五七(男九一・女六六)、牛が一〇疋。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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