蛭川村(読み)ひるがわむら

日本歴史地名大系 「蛭川村」の解説

蛭川村
ひるがわむら

[現在地名]児玉町蛭川

上真下かみましも村・下真下村の東に位置し、南は入浅見いりあざみ村・吉田林きたばやし村、東は下浅見村。児玉党蛭川氏の名字の地とされ、児玉党系図(諸家系図纂)では摂津一ノ谷合戦で戦功のあった庄四郎高家の子定重が蛭河太郎を称している。承久の乱の際には、承久三年(一二二一)六月一四日の山城宇治合戦で幕府方の蛭河刑部三郎が負傷している(「吾妻鏡」同月一八日条)。暦仁元年(一二三八)二月一八日の将軍藤原頼経上洛の際にも、真下氏・阿佐美氏らとともに蛭河四郎左衛門尉が供奉した(同書同日条)。応永二五年(一四一八)安保宗繁らが本庄左衛門入道らによる「児玉郡蛭河郷」等の田畠在家への押妨を訴えたのに対し、鎌倉公方足利持氏は本庄氏らの押妨を退け、下地を宗繁らに沙汰付けることを横瀬美作守らに命じている(同年三月二八日「足利持氏御判御教書」安保文書)

蛭川村
ひるかわむら

[現在地名]蛭川村和田わだ今洞いまぼら中切なかぎりかし殿塚とのづか町切まちぎり鳩吹はとふき奈良井ならい下沢しもざわ一色いしき一之瀬いちのせ田原たはら奥渡おくど棚田たなだ

北はとお峠を経て黒川くろかわ(現加茂郡白川町)、西は蛭川峠を経て中野方なかのほう(現恵那市)、南は毛呂窪けろくぼ村・大井おおい(現同上)茄子川なすびがわ(現中津川市)、東は高山たかやま(現福岡町)。西の笠置かさぎ山の大部分は村有林である。蛭川盆地中には小さな山や丘があり、これらの山上に各集落の氏神がある。関ヶ原戦後遠山友政(苗木藩)領となり、以後幕末まで同藩領。

蛭川村
ひるがわむら

[現在地名]大曲市蛭川

北流する雄物川の西側、たま川と雄物川の合流点および神宮寺じんぐうじ嶽の南にあり、南は大曲西根おおまがりにしね村、東は雄物川を隔てて大曲村、東北は高関下郷たかぜきしもごう村に接する。

はま町の本誓ほんせい寺の由緒沿革書抄(大曲町史資料)に天正一六年(一五八八)「明誉上人蛭川村花開きと云ふ地に当寺創建」とあり、この頃集落の成立していたことをうかがわせる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に蛭川村四四石、新田とある。宝永二年(一七〇五)の仙北郡村々御黒印高帳(秋田県庁蔵)では、高は本田四〇石四斗一升八合、新田四七石五斗六升三合、合計八七石九斗八升一合(当高八四石四斗二升四合)であった。

蛭川村
ひるかわむら

[現在地名]会津坂下町牛川うしかわ

南を田沢たざわ川の末流蛭川が北流して栗村くりむら堰を合流し、北東は坂下村、南は牛沢うしざわ村。かつては坂下村と塔寺とうでら村の中間にあったが、度々の洪水のため現在地に移転したと伝える。「塔寺長帳」永正五年(一五〇八)条に「ひる川の成就坊、久敷御祈祷いたされ候」とある。また同一六年条に当村とすぎ村・船窪ふなくぼ村・栗村の者が起請をしている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一〇二石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では本田高一一九石余、免三ツ七厘余、家数一三、竈一六、男四〇・女三〇、馬七で、小物成として綿役・糠藁・足前・山役がある。

蛭川村
ひるがわむら

[現在地名]小松市蛭川町・城北町じようほくまち

かけはし川下流右岸、西は大島おおしま村、南は犬丸いぬまる村・松梨まつなし村。「びるがわ」とも発音する。正保郷帳では高一千六一六石余、田方八八町八反余・畑方六町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千六六〇石、免四ツ六分(三箇国高物成帳)。正徳四年(一七一四)には当村九郎兵衛が銀一五枚で鹿毛の三歳馬を藩へ上納している(改作所旧記)。明治初年の本籍八一戸、人数男二一九・女不明、物産に実綿・菜種・生糸・木綿・真綿がある(皇国地誌)

蛭川村
ひるかわむら

面積:四四・二一平方キロ

恵那郡は恵那市と中津川市により南北に二分されているが、その北域の南西端にある。南と西は恵那市、北は加茂郡白川しらかわ町、東は福岡ふくおか町、南東は中津川市に接する。恵那盆地北西縁の一角にあたり、西から北にかけて飛騨山脈末葉の標高九〇〇メートル前後の縁辺山陵が発達し、標高三五〇メートル前後の丘陵地帯を馬蹄状にとり囲む。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報