大曲村(読み)おおまがりむら

日本歴史地名大系 「大曲村」の解説

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]大曲市大曲・丸の内まるのうち町・おお町・上大かみおお町・はま町・花園はなぞの町・あけぼの町・川原かわら町・みどり町、黒瀬くろせ町・中通なかどおり町・とおり町・福住ふくずみ町・白金しろがね町・若竹わかたけ町・須和すわ町一―三丁目・さかえ町・若葉わかば町・上栄かみさかえ町・金谷かなや町・日の出ひので町一丁目・住吉すみよし町・大花おおはな町の各一部

雄物川とたま川の合流点の南に位置し、羽州街道に沿う。南は小貫高畑おぬきたかばたけ村、東は戸蒔とまき村、西は雄物川を隔てて蛭川ひるがわ村・大曲西根おおまがりにしね村、北は高関下郷たかぜきしもごう(駅名花館村)に接する。村の中央を丸子まるこ川が西流し、村の西端で雄物川に合流する。

現横手市金沢かねざわの八幡神社に残る正和元年(一三一二)の大般若経奥書に、

<資料は省略されています>

とある。貞治五年(一三六六)一一月二七日の秋季への譲状(新渡戸文書)には「大曲雨宿当城両方之士□□□□」とある。速断できないが、ほぼ当地に間違いないものとみられる。

現丸の内町の八幡神社に元亨三年(一三二三)の銘のある石造五重塔があり、現須和町の大川だいせん寺に永和二年(一三七六)銘の出土割石板碑、現大曲古四王際こしおうぎわの古四王神社には康暦三年(一三八一)銘の自然石板碑がある(本殿礎石に転用)

元禄一四年(一七〇一)の「私屋敷内城と申由緒語伝之御事」(大曲町史資料)によれば、富樫一族が加賀国より文和(一三五二―五六)神宮寺じんぐうじ(現仙北郡神岡町)へ移り、年代は明らかではないが、「其以後、大曲村之内、土屋館築候居候由、天文五年に戸沢殿へ奉公仕候由」と伝えている。

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]矢本町大曲

東は蛇行南流するじよう川を境として赤井あかい村、門脇かどのわき(現石巻市)、南は石巻いしのまき湾。小野おの本郷(現鳴瀬町)で分岐し石巻に至る石巻街道(金華山道)が通り、現在も字松原まつばらに道跡が残る。「安永風土記」に付記された文政一一年(一八二八)の書付によれば、村名の由来は玉造たまつくり(江合川、現在の定川)が五ヵ所ほど曲っていたことによると伝える。南北に長い村で、大曲湊、大曲浜ともいう。正保郷帳では田二貫七〇六文・畑五二七文で旱損と注記され、ほかに新田四二貫六三七文。

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]相馬市大曲

百槻どうづき村の南の平坦地に位置し、南は馬場野ばばの村・程田ほどた村、東は新田にいだ村。馬場野村のうちを流れる宇多うだ川の旧流とみられるうめ川から、当村字大毛内だいもううちで分岐する大江おおえ堀が村内に入り、程田村との境を流れ、新田村と程田村の境をなしている。天文七年(一五三八)の段銭古帳に宇多庄のうちとして「大まかり」とみえ、段銭一五貫九五〇文とある。同二二年の晴宗公采地下賜録によると、「うたの庄こ泉大まかり」および同地の棟役・段銭が小々高大炊助に安堵されている。

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]燕市水道すいどう町一―四丁目・大曲

東はなかくち川に面し、蔵関くらせき村の東、北は大田おおた村。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に高二〇四石五斗余とある。同九年幕府領。寛永一一年(一六三四)検地帳(佐藤家文書)によれば本田五二石三斗(反別四町)・本畑二四石五斗(四町、屋敷地を含む)、新田一五二石一斗(一二町六反)・新畑二七石三斗(六町七反、屋敷を含む)で村高は二五六石四斗(二七町四反)、新田畑は同七年から一一年までに開発されたものである。

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]豊後高田市平野ひらの 大曲

熊野くまの村の東、田染たしぶ盆地南東の狭隘な谷間に位置する。集落はかつら川支流の大曲川中流右岸の緩斜面にあり、集村であった(元禄二年「村絵図写」田染支所蔵)。永享三年(一四三一)九月二一日の田染庄内永正名大まかり取帳(永弘文書)に宇佐宮神領として「大まかり」とみえる(→田染庄。江戸時代の領主の変遷は高田たかだ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳によると高七六石余、家数八(うち百姓三、庭屋・牛屋・名子屋五)・人数九(うち百姓三・名子一)、牛三。

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]名取市大曲

高柳たかやなぎ村の南にあり、東は牛野うしの村、西は下余田しもよでん村に接する。村名は「閖上風土記」には大隈おおまがりとあり、昔名取川が当地付近で大きく曲がって流れていたので大隈と書き、のち大曲になったという。また当地を通る街道がはなはだしく曲がっていたためという説もある。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「大満かり」とみえ、段銭は七貫文。正保郷帳では田四九貫四一二文・畑三貫二九三文、ほかに新田一貫六二五文がある。「封内風土記」の戸数二八。「名取郡地誌」によれば戸数三七、男一二四・女一二〇、牡馬二〇。南方の天神てんじん沼を用水とし、勘平かんへい堀・三重みえ堀が流れる。村央に字中小路なかこうじがあり町並が南北に連なる。

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]板倉町大曲

南は内蔵くら新田、東は大荷場おおにんば村、北と西は北大島きたおおしま(現館林市)。「邑楽郡町村誌材料」によると、往古は伊谷田いやだ村大曲組といい、元和三年(一六一七)の榊原検地の時に分郷したとする。しかし寛文郷帳は伊谷田村であり、分郷は天和二年(一六八二)館林城付領一五万石のうち一一万五千石が旗本二〇七人に分与された時と思われる。村名の由来は、文禄四年(一五九五)まで当村北側を流れていた矢場やば川が、ここから大きく曲がって流れたことによるという。嘉暦三年(一三二八)四月八日の三善貞広寄進状(長楽寺文書)に添えられた弘願寺寺領注文に佐貫さぬき庄内として「江矢田郷」が記され、これが伊谷田をさすものと考えられる。

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]横田町横田

横田村の西に位置し、斐伊川の河岸段丘上に立地する。「出雲国風土記」の仁多郡城紲野きづなぬは当村南部の標高五六五・三メートルの山に比定される。文保二年(一三一八)五月二一日の中原某寄進状写(高田寺根元録)に横田郷大曲村とみえ、左衛門権少尉中原朝臣は高田たかた寺・大領だいりよう権現(現仁多町)に同村のうち一貫一七〇文を寄進している。しかしこの寄進状は同日付の中原某寄進状(岩屋寺文書)と比較しても粗略な点が多く、疑問の余地がある。

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]田舎館村大曲

東は畑中はたけなか村、西は諏訪堂すわどう村、北は堀切ほりきり村に接する。西流してきたまえ川・諏訪堂川が村の南西で北へ流れを変えているための村名と思われる。そのため諏訪堂村との間に低湿地である川原田かわらだがある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎郡に高一八三石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳に村高三五七・五二一石、うち田方二四町七畝二五歩、二八五・〇七七石、畑方一三町九反一畝二七歩、七二・四四四石、ほかに漆木八本、田畑地一反四畝、川原一反五畝、池床一ヵ所四畝が記される。

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]伊万里市南波多町みなみはたちよう大曲

高瀬たかぜ村の北、徳須恵とくすえ川が東から西へ大きく蛇行。村名もこれによるものであろう。小字名になかはる前田まえだ多知たちつじうらはるがある。「多知」は「館」で「松浦記集成」に「大曲村ニ大曲館、大曲和泉守別記日高和泉守ト有」とみえている。

大曲村
おおまがりむら

[現在地名]東脊振村大字大曲字大曲・在川ざいかわ松葉まつば

田手たで川の東部の平野部に位置する。正保絵図に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報