西川一草亭(読み)ニシカワ イッソウテイ

20世紀日本人名事典 「西川一草亭」の解説

西川 一草亭
ニシカワ イッソウテイ

大正・昭和期の花道家,随筆家



生年
明治11(1878)年1月12日

没年
昭和13(1938)年3月20日

出生地
京都府京都市中京区押小路麩屋町橘町

本名
西川 源治

経歴
明治37年、27歳のとき、京都で図案雑誌「小美術」を出す一方、去風流の挿花教授を始めたが、やがて浅井忠や幸田露伴らが弟子入り。また日出新聞や「ホトトギス」に芸術論を投稿すると、大正に入って夏目漱石も仲間に加わった。去風流は家元を継承すると数年のうちにサロン的大会派に成長、その勢いは東都にも及んで九条武子夫人はじめ上流夫人らが集まるようになり、家元である一草亭は大正から昭和初期にかけての華道界の風雲児となる。その傍ら幅広い文化活動を行い、昭和6年に創刊した「瓶史」は総合美術雑誌のはしりともいうべきもの。著書に「風流生活」「風流百話」「落花帚記」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西川一草亭」の意味・わかりやすい解説

西川一草亭
にしかわいっそうてい
(1878―1938)

いけ花作家。去風(きょふう)流家元。父一葉の長男として幼時からいけ花を学ぶ。また文学・美術にも研鑽(けんさん)し、その友交関係を通じて培われた教養をもとに開いた文人生(いけ)は、大正期から昭和期にかけての知識人の愛好するところとなり、九条武子(たけこ)に代表される名門の婦女子たちを集め一門を繁栄させた。また、いけ花の歴史的考察を進め、茶の湯庭園、建築などの日本文化全般にわたっての研究誌として、1931年(昭和6)より季刊『瓶史(へいし)』を発刊するほか、『日本の生花』『茶心茶語』『風流生活』などの著書がある。

[北條明直]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西川一草亭」の解説

西川一草亭 にしかわ-いっそうてい

1878-1938 明治-昭和時代前期の華道家。
明治11年1月12日生まれ。津田青楓(せいふう)の兄。父西川一葉にまなび,大正2年去風流7代家元をつぐ。夏目漱石(そうせき)ら文人・学者とひろい交友関係をもち,また九条武子らの名門子女を門下とした。日本伝統芸術の研究誌「瓶史」を創刊,主宰。昭和13年3月20日死去。61歳。京都出身。本名は源治郎。著作に「茶心茶語」「風流生活」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「西川一草亭」の解説

西川 一草亭 (にしかわ いっそうてい)

生年月日:1878年1月12日
大正時代;昭和時代の華道家
1938年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の西川一草亭の言及

【いけばな】より

…安達潮花はこれを当初飾花(かざりばな)とも呼んだが,当時のブルジョア層の応接間という新しい室内空間に機能するものとして発展していった。こうした新しい形式の盛花の出現に刺激されて,西川一草亭に代表される文人花の長所に注目し,形よりも理念を先行させたいけばなを目ざして山根翠堂たちによる自由花の運動がはじめられた。明治の修養主義から大正の教養主義の時代へと,いけばなの自由花もまた人間の教義としてのいけばなを問い,その確立を志した。…

※「西川一草亭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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