西川原村(読み)にしかわばらむら

日本歴史地名大系 「西川原村」の解説

西川原村
にしかわばらむら

[現在地名]粉河町西川原

葛城(和泉)山脈の南麓、名手なて川の西側に位置し、北と西は中津川なかつがわ村、東は名手川を挟んで東川原村、南は上丹生谷かみにうのや村に接する。「続風土記」は「名手川の上流にて川の西にあり、因りて西川原の名あり」と記す。「西河原」とも記す。水無みなせ川とよばれた名手川の東側は近世以前は高野山領名手庄、当村のある西側は粉河寺領で、当地は同寺領丹生屋にうのや村の内に含まれた。正暦二年(九九一)一一月二八日付の太政官符写(粉河寺文書)には、粉河寺の四至として「東限椎尾水無川弁才天」とあるが、この椎尾しいのお山は当地にあり、仁治二年(一二四一)七月日付の金剛峯寺衆徒陳状案(又続宝簡集)によるとその帰属をめぐって、丹生屋村と名手庄との間に相論が生じている。


西川原村
にしがわらむら

[現在地名]岡山市西川原・西川原一丁目

東川原村の西にあり、西は旭川、対岸南方みなみがた村・城下上出石かみいずし町・中出石町。南ははま村、北は竹田たけだ村。西河原村とも記した。寛永備前国絵図に村名がみえ、高六一二石余。「備陽記」によると田畑三七町七反余、家数六五・人数三七〇。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千一五一石余、蔵入。田高五三六石余・畑高一五四石余、家数七二、うち本村三一・砂山一九・前場一一・北山一一と分散している。


西川原村
にしがわらむら

[現在地名]小矢部市西川原

福住ふくずみ村の南、小矢部川右岸平地に立地。西河原とも書く。慶長一〇年(一六〇五)の検地打渡状(川合家文書)に西河原村とみえ、高一二八石余。元和五年(一六一九)の家高新帳に西川原村とみえ、役家数三、二郎島孫次組に属する。正保郷帳では高四四石余、田方二町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高六〇石・免四ツ二歩、小物成は鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)の追記によると、延宝五年(一六七七)から天保一二年までの新開高および手上高計一〇四石余を加え、高一六四石余。


西川原村
にしかわらむら

[現在地名]富山市奥田町おくだまち

神通川右岸、赤江あかえ川の西側に隣接し、北は下桑原しもくわはら村、西は野地を挟んで岩瀬いわせ街道、東は奥田村。村名はかつて神通川西岸の川原近くに位置したことに由来するという。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。

明暦二年(一六五六)の村御印留では草高九三石、免四ツ。


西川原村
にしかわらむら

[現在地名]羽黒町松尾まつお

東川原村の西に位置する。西河原とも記した。集落南方中川なかがわ堰が北流、用水は同堰支堰の天高てんこう堰を利用した。元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同年の酒井氏知行目録では高八七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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