奥田村
おくだむら
[現在地名]稲沢市奥田町・奥田〈井之下町・大沢町・北花ノ木町・計用町・酒伊町・島崎町・神ノ木町・膳棚町・大門町・天神町・天目寺町・中切町・長角町・流町・白山町・馬場町・堀畑町・南花ノ木町・宮長町〉・緑町・東緑町・幸町
東源寺川が村の東を南北に流れ、東は日下部村・増田村に接する。「徇行記」や天保村絵図によると、中ノ庄柳橋郷とあり、北の美濃路と南の八神街道に狭まれた大村で、村内は上・中・下と三区に分れ、さらに上は長留・大門・堀端、中は寺宮・長田・番場と分れ、下は寺切があった。
奥田村
おくだむら
[現在地名]大衡村奥田
善川の下流部にあたり、集落はその支流奥田川を遡上し、四方山丘に囲まれてある。南・西は大衡村、北は駒場村、東は蒜袋村(現大和町)。地名は蒜袋の御所館の眼下善川沿岸に開けた耕野から北の山間の奥まったところに位置することに由来するという(宮城県地名考)。天正一八年(一五九〇)九月一九日の黒川内奥田之検地帳写(東大史料編纂所蔵)によると、検地役人は伊賀守内の飯高・矢田氏で、名請人一三人・屋敷六筆。田二〇町九反一〇畝・畠五町八反二畝で、荒引の貫高は四二貫七七四文。
奥田村
おくだむら
[現在地名]富山市奥田町・奥井町・奥田寿町・奥田新町・奥田双葉町・奥田本町・下奥井一―二丁目・四ッ葉町・永楽町・城北町・久方町
神通川に並行している奥田新用水と赤江川に挟まれた野地の中央に位置し、東は野地を挟んで下奥井村・下奥井新村。戦国期には当地を中心とした一帯を奥田村と称していたと思われる。天正八年(一五八〇)七月越後上杉方の魚津城主として越中支配を統括していた河田長親が、稲荷神社の納所とみられる「奥田村」への乱暴狼藉を禁止した制札(富山稲荷神社文書)を出した。
奥田村
おくだむら
[現在地名]川西町上奥田・下奥田
黒川の谷口部にあり、東は時田村、北は上小松村、西は朴沢村。天文七年(一五三八)の段銭古帳の「下長井白川より南」のうちに「十三貫六百五十文 おく田」とある。現上奥田のうちの柳沢も独立した段銭賦課単位とされ、「九くハん五百文 柳さハ」とある。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、「おく田のかう、やなきさハの内、たちかへ在け」が後藤彦十郎に、「おく田やなきさハのうち、きり田五百かり」が峰崎左馬助に、松原のふん・大ほうさか・はらむし在け・ます沢在け・なちあミ在け・たうのした・やち在けが片倉伊賀守に、平二郎在け・ひしやもん在け・ます沢在けが草刈因幡守に下賜されている。
奥田村
おくだむら
[現在地名]東村奥田
奥田川を境に五町田村の西にある。北は吾妻川に限られ、村域は奥田川西岸沿いに南北に細長く延びる。もと西隣新巻村と一村で市牧村と称したが、文明年中(一四六九―八七)分村し奥牧村と新巻村となり、その後奥田村に改称したという。
万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高一〇二石余。寛文郷帳では田方二〇石余・畑方八二石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控では四七〇石余。天和元年(一六八一)郷村品々記録(小林文書)には沼田領から渋川筋への出口として村名がみえる。
奥田村
おくだむら
[現在地名]大和高田市大字奥田
葛城川東方、吉井村西方の平坦地集落。康平元年(一〇五八)一〇月の大和国竹林寺解案(東大寺文書)に「忍海郡興田庄 卅一条一里五坪一町」、延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の葛下郡に「西興田庄、十町五反二百四十歩」、同忍海郡に「安井庄(中略)竹林寺田五反 卅一条二里」「興田庄田畠九町三反六十歩」、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「興田庄竜花院七丁七反 号南興田寺、寺門反畝三丁五反 忍海郡」「南興田庄 忍海郡下津道ヨリ西也 一里ハ東上也」、永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録に「北ヲキ田字蔵坪在忍海郡卅条二里二十五坪」とある興田・ヲキ田の地である。ただし前記三箇院家抄には「北奥田庄、葛下郡」ともあるので、南興田庄は忍海郡三〇条・三一条付近に、北興田庄は葛下郡二八条・二九条付近に該当した。
奥田村
おくだむら
[現在地名]七宗町神渕 奥田
岳山に源を発する奥田川上流に沿った山間地帯に位置する。中之保村(現武儀郡武儀町)から越える北条峠越の飛騨道が村の中心を走る。南東は大塚村、東と北は八日市村、西は日根村(現武儀町)。神淵十郷の一つで、奥田組とも称した。元禄郷帳に高一三一石余とある。「濃州徇行記」によると高二〇〇石余・田畑二〇町二反余。街道筋の村前(奥田村の本郷にあたる)は「民居は山の麓に建ちならび村立よく土蔵を持ちたる家など見ゆ」とある。
奥田村
おくだむら
[現在地名]八尾町奥田
翠尾村の西、井田川左岸にある。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは田中村などと合せて記される。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では三田村の五町ほど東にある枝村新田としてみえ、高三八三石。寛政二年(一七九〇)の古高四八三石・定免四ツ一歩、ほかに持添新田高一六五石余とするのは三俣村であろう(高物成品々手鏡)。幕末の高は同じで免四ツ二歩、小物成銀は山役六匁余(古高免小物成銀等書上)。所属組は翠尾村と同じ。慶応四年(一八六八)の家数二八(うち頭振六)・人数一一九(うち頭振二二)であった(郡方人別書上帳)。
奥田村
おくだむら
[現在地名]鳩山町奥田
大橋村の北に位置し、西は須江村、北は山嶺を挟み神戸村(現東松山市)・将軍沢村(現嵐山町)など。松山領に属した(風土記稿)。永正一五年(一五一八)五月一四日、出雲守直朝・弾正忠尊能は越生(現越生町)の山本坊に証状(写、相馬文書)を送り、「奥田円通寺」などを浅羽(現坂戸市)の灌常坊らに返還することを証している。
奥田村
おくだむら
[現在地名]君津市長谷川
長谷川村の南対岸、小櫃川支流の御腹川中流左岸に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一二三石。元禄郷帳では高一三二石余。貞享元年(一六八四)には上野前橋藩領(「酒井忠挙領知目録」酒井家文書)、延享三年(一七四六)以降の領主の変遷は熊竹村に同じ。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数一〇。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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