西方寺村(読み)さいほうじむら

日本歴史地名大系 「西方寺村」の解説

西方寺村
さいほうじむら

[現在地名]珠洲市宝立町柏原ほうりゆうまちかしはら宝立町黒峰ほうりゆうまちくろみね

弘国ひろくに村・鳥越とりごえ村の南西方にある。中世は若山わかやまただ郷の内で、珠洲古窯跡の一つ西方寺古窯跡は県指定史跡。弘治元年(一五五五)閏一〇月二一日、越前から能登に復帰した遊佐続光が出奔中援助を送っていた禅経坊(妙厳寺定欽か)に対し、「直之郷之内西方寺分」を宛行っている(「遊佐続光判物」妙厳寺文書)。また年不詳八月三日の遊佐宗円書状(同文書)によれば、西方寺栃平横浜の山方課役を従来のごとく三年に一度進納するよう松若州に命じている。宗円は天文二〇年(一五五一)春成立の畠山七人衆の一人。

西方寺村
さいほうじむら

[現在地名]春江町木部西方寺きべさいほうじ

九頭竜くずりゆう川の東岸、つじ村の西にある。暦応二年(一三三九)一二月日付得江頼員軍忠状(得江文書)に、同年四月六日「押寄西方寺城抽合戦忠節畢」などとみえる。また「太平記」巻二一によれば同年七月五日、南朝方脇屋義助の牒状を受けた由良越前守光氏が「五百余騎ニテ西方寺ノ城ヨリ出テ、和田・江守えもり波羅密はらみ深町ふかまち安居はこの庄内ニ、敵ノ稠ク構ヘタル六箇所ノ城ヲ二日ニ攻落シ、則御方ノ勢ヲ入替テ六箇所ノ城ヲ守ラシム」とあるが、「越前国城蹟考」は西方寺城跡について「西方寺村辺城地不相知」と記す。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では上木部かみきべ庄に含まれ、村名は正保郷帳にみえ、田方一〇五石・畠方二一一石余。

西方寺村
さいほうじむら

[現在地名]国見町西方寺

竹田津たけたづ村の南、竹田津川の上流域に位置し、東は千灯せんどう村。寛永九年(一六三二)以降杵築藩領。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三〇五石余(御蔵納)、家数五八、うち百姓本屋一八・炭焼本屋三・山ノ口本屋一、隠居・庭屋・牛屋・名子ともに三六、人数一〇五、うち百姓一八・名子三、牛二一・馬二。正保郷帳では伊美いみ庄に属し、田高一四七石余・畑高九六石余。

西方寺村
さいほうじむら

[現在地名]舞鶴市字西方寺

岡田由里おかだゆり村の北西、岡田川下流に位置。集落は川幅のやや広くなった山間低地にある。

地名は村内に古く真言宗寺院西方寺があったことからその寺名によると伝えられる。応永二七年(一四二〇)一〇月二〇日付の道教田畠等売券(梅垣西浦文書)に「代之銭一貫伍百文永代松尾寺西方寺方へ」と記されるが、この西方寺が当地の西方寺に該当するかどうか不詳。

慶長検地郷村帳に高二九七・六九石「西方寺村」とみえ、土目録では総高二五九石余、内訳は田方二一三石余、畑方四五石余、運上のなかに唐網運上銀一〇匁、渋柿二斗五升があった。

西方寺村
さいほうじむら

[現在地名]大野市清滝せいりゆう

大野城下の南西部、すな山の東麓にある大野町枝村の一。東を赤根あかね川が南流する。北は清滝村。大永七年(一五二七)三月一一日付の洞雲寺寄進分田地目録(洞雲寺文書)に「西方寺の前」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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