枝村(読み)エダムラ

デジタル大辞泉 「枝村」の意味・読み・例文・類語

えだ‐むら【枝村】

えだごう(枝郷)」に同じ。⇔親村

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精選版 日本国語大辞典 「枝村」の意味・読み・例文・類語

えだ‐むら【枝村】

〘名〙 =えだごう(枝郷)⇔親村。
浮世草子・諸商人世帯気質(1736)六「若狭の枝村へ昼ぬけしてゆき」

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日本歴史地名大系 「枝村」の解説

枝村
えだむら

旧東山道沿いに存在した市場集落で、現在の上枝・下枝付近に比定される。享禄年間(一五二八―三二)と推定される小幡商人申状案(今堀日吉神社文書、以下集合文書名のないものはすべて同文書)に「愛智川中橋市・四十九院市・枝村市、是新市也」とあり、愛知えち川より北域の市庭における相物以外の商品は、小幡おばた(現神崎郡五個荘町)愛知川(現愛知郡愛知川町)・枝村の商人が市売するところであったらしい。枝村領内には三ヵ所の関所が存在した。「愛智郡志」はこの三関を、南は宇曾うそ川の北岸を吉田よしだに通ずる所、次は上枝より東へ分岐する所、北は下枝より肥田ひだ(現彦根市)方面に分岐する所に比定している。「大乗院寺社雑事記」文明一一年(一四七九)七月二六日条は、美濃国明智あけち(現岐阜県可児市)の持是院までの使者一人と従者二名の下向に伴い、京都より美濃に至る間の人夫駄賃銭と各新関の通行料を記し、武佐むさ(現近江八幡市)より枝村までの駄賃銭は一〇〇文、枝村より四十九院しじゆうくいんまでが八五文、枝村三関の関銭は五〇文であった。

中世の枝村には、京都宝慈ほうじ(現京都市上京区)を本所と仰ぐ美濃紙本座が存在し、紙商売をめぐり保内商人と激しい争論を展開した。応仁三年(一四六九)三月一二日、室町幕府奉行人は当時美濃紙の集散地であった武儀むぎ大矢田おおやだ(現岐阜県美濃市)で紙を仕入れ、それを京都に運搬する紙荷商人(枝村商人)公事物が、近江国の路次支障によって応仁元年以来滞納されているとの宝慈院雑掌の訴えに基づき、所役を全うすべく諸関へ下知するよう、六角高頼に命じている(室町幕府奉行人連署奉書案)

枝村
えだむら

[現在地名]木津町大字木津 殿城とのしろ雲村くもむら南垣外みなみがいと

木津川南岸平地の微高地にあり、東は上津こうづ村、西は大路おおじ村。木津郷の一。

江戸中期と推定される木津郷絵図(岡田家蔵)によれば、西の大路村から東の上津村に至る木津川南岸は国役普請の堤が築かれ、その外に「御立藪」といわれる水防林が続き、木津川洪水から村を守っていたことがわかる。延宝七年(一六七九)頃には幕府領で小野半之助代官所支配であった(「梅谷新田開発記」駒喜多家文書)

枝村
えだむら

[現在地名]大津市田上枝町たなかみえだちよう

もり村の西方にある。どう山などを水源とする天神てんじん川沿いに枝古墳群、同山麓にははり古墳群、および室町期にわたる集落遺跡が確認されている。江戸期を通じて膳所藩領。寛永石高帳に村名がみえ、高二九三石余。慶安高辻帳では田一四五石余・畑四石余、永荒一四三石余、小物成一一石余。旧高旧領取調帳では三四二石余。正徳二年(一七一二)より大津宿の助郷を勤め(「京都御役所向大概覚書」ほか)、藩には「宮川堤木ヲ植候運上」銀六匁を納めた(膳所藩明細帳)

枝村
えだむら

[現在地名]竹田市枝

法師ほうし山の北にあり、北は立石たていし村。正保郷帳では阿志野あしの郷に属し、田方二一五石余・畑方一一一石余で、柴山有と注記される。三宅組に属し、村位は上。安永七年(一七七八)の小庄屋は清治(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

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百科事典マイペディア 「枝村」の意味・わかりやすい解説

枝村【えだむら】

枝郷(えだごう)

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