寺伝によると遊行五世安国は、正慶二年(一三三三)五月二二日、
とあり、戦闘の状況や遊行寺の僧たちの活動が記されている。康安元年(一三六一)伊豆国に挙兵し、翌年九月関東公方足利基氏に降参した関東管領畠山国清が、同月一八日夜「藤沢ノ道場」まで落ちのびたとき、「上人甲斐々々敷馬二疋、時衆二人相副テ」国清を京都へ逃亡させた。また国清の舎弟尾張守義深は「箱根ノ御陣ニ有ケルガ、翌ノ夜或時衆ノ斯ル事ト告ケルニ驚テ」、結城直光を頼み、直光は義深を長唐櫃の中に隠し「藤沢ノ道場ヘゾ送ケル」(「太平記」巻三八)という。このように時衆(時宗の僧)は進んで戦場に赴き、武士に最期の十念を与え、死体を埋葬し、あるいは逃亡を助けるなどしている。
応永二三年(一四一六)四月三日、将軍足利義持より「清浄光寺藤沢道場遊行・金光寺七条道場時衆、人夫・馬・輿已下諸国上下向」にあたっての関銭免除が諸国の守護に命ぜられており(「室町幕府管領細川満元奉書写」県史三)、永享八年(一四三六)一二月五日の幕府管領細川持之奉書写(同書)にもほぼ同様のことがみえる。応永二三年上杉禅秀の乱が起こり、持氏方に属した上杉氏定は禅秀方に敗れ、藤沢道場で自害、またこの乱で禅秀方の部将も多く戦死した(鎌倉大草紙)。同二五年一〇月六日、遊行一四世太空(藤沢八世)は、この乱で亡くなった人々のため
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神奈川県藤沢市にある寺。時宗の総本山。藤沢山無量光院と号す。俗称は遊行(ゆぎよう)寺。開山は他阿弥陀仏呑海,開基はその兄の俣野五郎景平。呑海は遊行上人第4世で,1319年(元応1)に嗣法してから7年間にわたり各地を遊行した。25年(正中2),遊行上人位を安国に譲り,藤沢の地に寺を建ててここに住む。これが清浄光寺のおこりであり,当初は清浄光院あるいは藤沢道場と称した。これ以後,遊行上人は引退すると清浄光寺に住むことが慣例となり,これを藤沢上人と呼んだ。伽藍は第6世一鎮のころから整備され,第8世渡船の56年(正平11・延文1)にいたって完成した。南北朝,室町時代は鎌倉公方足利氏や関東管領上杉氏等の保護を受け,何度かの火災にあったにもかかわらず順調に発展した。二条良基の《菟玖波集》に〈清浄光院にまかりて〉とか,道興准后の《廻国雑記》に〈藤沢の道場,聞えたる所なれば一見し侍りき〉などとあるように,広く世に知られていた。時宗の信者たちの清浄光寺に対する信仰心もあつく,《時衆過去帳》などによって彼らが当寺に葬送,納骨した例を多く見ることができる。1513年(永正10)後北条氏の進出に伴い焼亡するが,江戸時代に入り,徳川氏の保護を得て1607年(慶長12)に再興された。寺領100石を与えられ,時宗全体の総本山格に昇る。
現在では時宗宗務所が置かれ,境内には〈怨親(おんじん)平等碑(藤沢敵御方(てきみかた)供養塔)〉が立つ。これは高さ125cmの角石塔婆で,1416年(応永23)上杉禅秀の乱における敵味方の犠牲者が浄土に往生するようにと祈ったものである。また塔頭(たつちゆう)の一つ長生(ちようしよう)院は,俗に小栗堂と呼ばれ,説経節で名高い〈小栗判官〉の伝説を持ち,小栗判官や照手姫の墓がある。背後の山の中腹には歴代上人の墓のほか,鎮守の熊野権現,徳川氏ゆかりの宇賀神社がある。なお,中世以来の鎮守の諏訪神社は,明治維新後の神仏分離で独立し,東海道を渡った向い側の丘の上に建つ。清浄光寺が所有する文化財としては,《時衆過去帳》,後醍醐天皇御影,一向上人像(いずれも重要文化財)をはじめ,経典,絵画,彫刻,足利義持御教書などの中世,近世にわたる古文書など,多数存在する。おもな法要として,春の開山忌(呑海忌),秋の開山忌(一遍忌),ススキのまわりを巡りながら念仏を唱える薄念仏会,年末の歳末別時念仏会と〈一つ火〉といわれる滅灯の儀式がある。
執筆者:今井 雅晴
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神奈川県藤沢(ふじさわ)市西富にある寺。時宗(じしゅう)の総本山で藤沢山(とうたくさん)無量光院と号する。通称は遊行寺(ゆぎょうじ)。第4世遊行上人(しょうにん)呑海(どんかい)(1265―1327)が、藤沢四郎太郎の帰依(きえ)を受け、俗兄で俣野(またの)の地頭(じとう)俣野五郎景平の助力を得、景平を開基として1325年(正中2)廃寺極楽寺(ごくらくじ)跡に清浄光院(藤沢道場)を建立したのに始まる。寺伝によると、1356年(正平11・延文1)足利尊氏(あしかがたかうじ)より寺領6万貫の寄進を受け、後光厳(ごこうごん)天皇より寺額を賜って清浄光寺と改称したという。当時、鎌倉周辺での合戦には時宗の僧(時衆(じしゅう))が従っており、武士の切腹に際して最期の十念を授け、埋葬・供養(くよう)を行い、また逃亡を助けるなど活躍している。第12世尊観(そんかん)は亀山(かめやま)天皇の孫で、足利義持(よしもち)は人夫・伝馬などを供して遊行回国の便を図っている。また徳川家康も朱印100石を寄せている。当寺はたびたび焼亡・再興を繰り返し、ことに関東大震災(1923)では全山倒壊したが、その後復興し壮大な本堂・鐘楼が建つ。境内には、上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱(1394)で戦死した敵御方供養碑(国指定史跡)、延文(えんぶん)元年銘の梵鐘(ぼんしょう)、小栗(おぐり)判官と照手姫(てるてひめ)の墓などがある。寺宝に絹本着色後醍醐(ごだいご)天皇画像、同一向(いっこう)上人画像、六時居讃、時宗過去帳(以上、国指定重要文化財)などがある。1月12日には遊行上人の初賦算(ふさん)(おふだくばり)があり、4月21~24日に呑海の、9月21~24日に宗祖一遍(いっぺん)の春・秋開山忌が行われる。
[田村晃祐]
『寺沼琢明著『一遍上人と遊行寺』(1981・ぎょうせい)』▽『橘俊道著『遊行寺』(1975・名著出版)』
神奈川県藤沢市西富にある時宗の総本山。藤沢山無量光院と号す。藤沢道場と称し,俗称は遊行(ゆぎょう)寺。4世遊行上人呑海(どんかい)と当麻(たいま)無量光寺に止住していた内阿真光(しんこう)が跡職をめぐって対立し,寺をでた呑海が兄俣野(またの)景平の援助をうけて1325年(正中2)相模国藤沢の地に創建。以後遊行上人を退くと藤沢上人となり,時宗遊行派を統轄した。室町時代には足利将軍家や鎌倉公方家の庇護をうけ繁栄したが,1513年(永正10)の兵火により全焼し,各地を転々とした。1607年(慶長12)に徳川家康の知遇を得た32世遊行上人普光が再興した。罹災のたびに門前町・宿場町藤沢の中心として復興された。1872年(明治5)総本山となる。80年の大火と関東大震災で倒壊したが,徐々に山容を整え現在に至る。「一遍上人絵伝」(国宝)以下の寺宝・美術品を所蔵。
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…真教の無量光寺は3世智得がついだが,智得と4世呑海の間に隙が生じたので,1325年(正中2)呑海は相模国の藤沢にあった極楽寺を再興して清浄光院と改めてそこに住んだ。5世安国のとき,この寺は一宗の本山となり,6世一鎮のときに清浄光(しようじようこう)寺と名を改めた。こうして時宗は,遊行派(清浄光寺)と当麻派(無量光寺)に分かれたが,1697年(元禄10)に呑了が著した《時宗要略譜》には,遊行,一向,奥谷,当麻,四条,六条,解意,霊山,国阿,市屋,天童,御影堂の12派が記されている。…
…おもに西国を布教してまわるが,遊行上人の後継者争いのもつれから,25年(正中2)藤沢の地に兄景平の援助で寺を建ててここに住んだ。これがのちの時宗総本山清浄光(しようじようこう)寺である。呑海の系統の時宗を遊行派と呼び,時宗の中心勢力に発展した。…
…市域は相模湾岸の砂丘地帯から,相模野台地の南部まで南北に広がる。近世には時宗の総本山清浄光(しようじようこう)寺(遊行(ゆぎよう)寺)の門前町,東海道の宿場町として栄えた。1887年東海道本線が通じ,藤沢駅が設けられたことから,駅の北側に市街地が形成され,また湘南の観光・保養地として発展した。…
…清浄光(しようじようこう)寺(遊行寺ともいう)を拠点とし,回国する時宗の指導者の称。特に時宗の開祖一遍,その弟子で時宗遊行派の祖他阿真教をさすことも多い。…
※「清浄光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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