西琳寺(読み)さいりんじ

日本歴史地名大系 「西琳寺」の解説

西琳寺
さいりんじ

[現在地名]羽曳野市古市二丁目

東高野街道竹内たけのうち街道の交差地点北東部に位置する。向原山と号し、高野山真言宗本尊薬師如来。古代寺院西琳寺(西林寺・古市寺)の法灯を継ぎ、由緒は古い。現在の境内はその一部にあたる。「伊呂波字類抄」に西琳寺として「在河内国古市郡字古市寺」と記される。飛鳥時代の西琳寺跡は、昭和二四年(一九四九)発掘調査が行われて塔跡や回廊跡が明らかにされ、塔を東、金堂を西に配する法起寺式伽藍配置の寺と推定された。塔心礎は円形柱穴の四方に添木柱穴を彫り、柱穴の側面に舎利孔をもつもので、底面中央には「刹」の一字が刻まれている。出土した瓦には創建時の八葉素弁蓮華文軒丸瓦があり、そのほか鎌倉時代に至るものまである(「河内西琳寺の研究」大阪府教育委員会・一九五五年)

文永八年(一二七一)三月惣持の記した「河内国西琳寺縁起(「西琳寺文永注記」ともいう)は、惣持が寺蔵の文書や金石文を引用しつつ縁起・寺号・寺官・堂舎・僧宝等・奇瑞寺務を述べたものであるが、縁起に載る「天平十五年十二月晦日記」によると、「西林寺(古市寺)欽明天皇二〇年に文首阿志高が天皇とともに建立し、丈六の阿弥陀仏像を安置したという。これが当寺草創に関するいちばん古い記録である。もっとも、天和三年(一六八三)の西琳寺略記(寺蔵)によると、当寺は百済渡来の王仁の子孫河内文氏(西文氏)が欽明天皇のために造立し、向原むくはら寺と称し、百済国聖明王が持来った釈迦観音・経巻・仏舎利類を安置したとされ、現在の寺伝はこの略記に基づいて説明されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の西琳寺の言及

【漢氏】より

…西漢は,河内国丹比・古市2郡を中心に,近接して居住し,文・武生・蔵の首(おびと)姓,船・白猪(しらい)・津の史(ふひと)姓などの各氏にわかれたが,東漢ほどの勢力はなく,八色の姓でも,忌寸をあたえられたのは文(書)首など少数にとどまった。しかし,8~9世紀に津氏が菅野朝臣(あそん)を賜り,政界で活躍し,また在地では,西琳寺(さいりんじ),葛井寺(ふじいでら),野中寺(やちゆうじ)などの氏寺を経営した。東漢氏【平野 邦雄】。…

※「西琳寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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