日本大百科全書(ニッポニカ) 「西笑承兌」の意味・わかりやすい解説
西笑承兌
さいしょうしょうたい
(1548―1607)
安土桃山から江戸初期の相国寺(しょうこくじ)の禅僧。「せいしょう」「じょうたい」ともいう。1584年(天正12)に相国寺に入寺し五山十刹(じっさつ)寺院を統轄する鹿苑僧録(ろくおんそうろく)につく。時の政権とのかかわりが深く、豊臣秀吉には対外交渉をもって仕え、対明(みん)国書等を管掌。文禄・慶長の役では、南禅寺の玄圃霊三(げんぽれいさん)らとともに肥前国名護屋(なごや)に赴き朝鮮在陣の諸将への檄文の作成などにかかわっている。関ヶ原の戦後は徳川家康に仕え、対外交渉に加え、畿内(きない)寺社のことも管掌するようになり、「日本寺奉行」と呼ばれるほど寺社からの訴訟には大きな影響力をもっていた。彼の残した『西笑和尚文案(さいしょうおしょうぶんあん)』はその点を知る一級の史料である。また『鹿苑日録』のなかに1566年(永禄9)・1589年(天正17)・1597年(慶長2)の承兌の日記『日用集』がある。
[伊藤真昭]
『伊藤真昭著「慶長期における徳川家康と畿内寺社――『西笑和尚文案』の分析を通して」(『待兼山論叢28号』史学編)』▽『伊藤真昭他編『相国寺蔵西笑和尚文案』(2007・思文閣出版)』