覚明(読み)かくみょう

改訂新版 世界大百科事典 「覚明」の意味・わかりやすい解説

覚明 (かくみょう)
生没年:1156?-1241?(保元1?-仁治2?)

かくめい〉とも読む。平安末・鎌倉初期の怪僧で,木曾義仲の右筆として有名。大夫房を称し,西乗坊信救(しんぎゆう)ともいう。《平家物語》の所伝や自著《仏法伝来次第》跋の略歴によれば,もとは儒者で,勧学院の学生,蔵人通広といい,叡山黒谷で出家して信救と号す。北国修行し南都に移る。以仁王挙兵の際に興福寺の返牒を代作し,〈清盛入道は平氏糟糠武家塵芥〉と批判したため,清盛の怒りを買い,南都から亡命したという。《延慶本》等では,漆を身に浴び,癩病人に変装して東国に落ちのび,源行家に付いたと伝えるが,義仲に従ってからは,大夫房覚明と号して文書を起草したり参謀を務めたとされる。義仲敗亡後は箱根山神宮寺にいたが,頼朝の知るところとなり,1195年(建久6)山内に禁足されたと《吾妻鏡》に伝える。《和漢三才図会》《本願寺通紀》等によれば,やがて叡山に戻り,浄寛と号して慈円の下に寄寓し,のち,法然の弟子となり,親鸞に従って西仏と改名し,信濃国埴科郡海野庄に康楽寺を開いたと伝える。その著《筥根山縁起》《和漢朗詠集私註》《三教指帰註》等がある。《沙石集》《実語教》(《延慶本》所引)によれば風刺精神に富む落書も作ったという。
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朝日日本歴史人物事典 「覚明」の解説

覚明

生年:生没年不詳
平安末期・鎌倉初期の僧。「かくみょう」とも。本名信阿。信救とも。はじめ勧学院の進士であったが1140~50年代に出家して比叡山に登り,北陸修行ののちに南都の学侶となる。治承4(1180)年以仁王の変で園城寺への返牒を草すが,「清盛は平氏の糟糠,武家の塵芥」の表現が平清盛を怒らせる。北陸に逃げて大夫房覚明と名乗り,源義仲の右筆(書記)を務め,『平家物語』に願書,牒状を残す。義仲死後は信救得業と号し,建久1(1190)年ごろには鎌倉に,やがて箱根山に住み,仏事の導師や願文起草を行う。建久6年に素性が源頼朝に知られ,禁足処分を被る。元久2(1205)年には存命。『和漢朗詠集私注』(1163),『新楽府略意』(1172),『仏法伝来次第』,『筥根山縁起并序』などを著す。華麗な文才遍歴は,『平家物語』生成に多くの文書資料,話材を与えたと考えられている。

(櫻井陽子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「覚明」の解説

覚明 かくめい

1718-1786 江戸時代中期の行者。
享保(きょうほう)3年3月3日生まれ。行商生活ののち,仏門にはいり真言密教を修行。天明5年木曾へいき,地元の信者をひきつれて御岳(おんたけ)にのぼり,従来重潔斎(けっさい)をした道者にのみゆるされていた御岳登山を開放。各地に御岳講が組織される契機をつくった。天明6年6月20日死去。69歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。俗名は仁右衛門。

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