中国の女流作家。本名謝婉瑩(えんえい)。福建(ふっけん/フーチエン)省の人。北京(ペキン)の協和女子大学(のちに燕京(えんきょう)大学に合併)に在学中、五・四運動の影響の下に執筆を始め、1919年『この人ひとりやつれはて』などの「問題小説」によって一躍文名を知られる。21年文学研究会に参加。母の愛を賛美する「愛の哲学」を基調とした小説『超人』などを発表。23年アメリカのウェルズリー大学に留学、26年に帰国して燕京大学の教員となり、29年社会学者呉文藻と結婚。抗日戦争中は雲南に移ったが、46年駐日代表部員となった夫とともに来日、東大その他で中国文学を講じた。51年、革命後の中国に帰国した後は全国人民代表大会代表などの要職につくとともに、主として児童文学の分野で活躍、『タオ・チーの夏休み日記』『みかんの提灯(ちょうちん)』などの作品がある。82年末から『冰心文集』全5巻が刊行されている。その作品は平易で清らかであり、人生に対する一貫した探求的態度が率直に表現されている。
[橋本草子]
『北岡正子訳「みかんの提灯」(『中国現代文学選集13』所収・1963・平凡社)』▽『倉石武四郎訳「超人」「寂寞じゃくまく」(『現代中国文学11』所収・1971・河出書房新社)』▽『倉石武四郎訳『タオ・チーの夏休み日記』(岩波少年文庫)』
中国,現代の詩人,作家,児童文学者。福建省閩侯(びんこう)出身。本名謝婉瑩(えんえい)。筆名冰心女士,男士ほか。富裕な海軍将校の家に生まれ,山東で育ち,少女時代北京に出てミッションの貝満(ばいまん)女学校,協和女子大予科に学ぶ。予科在学中,五・四運動を経験,創作を始め,清新な新詩,散文,小説などによって新文学における輝ける星と目される。21年文学研究会に参加。23年アメリカ留学。26年帰国,燕京大学,清華大学,女子文理学院で教え,中日戦争中は雲南や重慶に在った。46年夫の呉文藻に従って来日,東京大学で講学。52年北京へ帰る。以後,国際的に著名な作家として文化界,婦女界を代表して国際交流などにつとめる。詩集《繁星》(1921),《春水》(1922成立),短編小説《超人》(1923刊),散文《小さき友へ》(1927刊),児童文学《陶奇の夏休み日記》(1956刊)など。小説も散文も,表現の美しさに定評があるが,五・四運動期を除き,社会的な問題意識は強くはあらわれていない。
執筆者:中島 みどり
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1900~99
中国現代の女流作家。五・四運動のとき作家をめざす。「愛の哲学」をテーマに封建的な家庭や社会矛盾をつく問題小説を世に出す。1923年アメリカに留学,『寄小読者』の連載で児童文学にも独自の境地を開く。26年に帰国。第二次世界大戦後来日して東京大学で講師を務めた。53年に帰国,中国作家協会に加入し,児童文学者として活躍した。80年代には中国民主化の象徴的存在であった。
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…魯迅も,中国の児童文学の発展のために外国の作品を翻訳し,また民話・古典など民族の文化遺産の生かし方に指導的な役割を果たした。その後,林蘭(りんらん)の名による民話の収集整理,老舎の長編《小坡の誕生日》(1930)をはじめ,巴金(はきん),謝冰心(しやひようしん),茅盾(ぼうじゆん),張天翼(ちようてんよく)らの創造活動によって前進をとげた児童文学は,中華人民共和国の成立後,国家的事業として飛躍的に発展しつつある。 新中国の児童文学を代表する張天翼の小説《羅文応の話》(1954),秦兆陽(しんちようよう)の童話《ツバメの大旅行》(1950),そのほか詩,劇,伝記,科学読物などさまざまなジャンルにわたって,革命後の成果が1954年の国際子どもデーに表彰された。…
※「謝冰心」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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