少数民族が多く住む中国南部、雲南省の省都。気候が温暖で、古い街並みが世界遺産に登録された同省の麗江など日本人にも人気の観光地への玄関口。2012年は国内から4580万人、海外から113万人の旅行客が訪れた。人口653万人(12年)の約8割が漢族で、ほか2割がイ族や回族などの少数民族。ウイグル族は少なく、地元の少数民族による抗議活動などはほとんど伝えられていない。北京五輪を控えた08年7月に通勤バス2台が爆破されて2人が死亡、「トルキスタン・イスラム党」を名乗る組織が犯行声明を出した。雲南省はベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接し、麻薬取引の横行でも知られる。(共同)
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中国南部、雲南(うんなん)省北東部の地級市で、同省の省都。略称は昆。省中央部滇池(てんち)盆地にあり、市街地は滇池地方に広がる。東川(とうせん)など7市轄区、3県、3自治県を管轄し、安寧(あんねい)市の管轄代行を行う(2017年時点)。人口555万5700、市轄区人口317万7100(2015)。市街地は滇池北岸の標高1890メートルの高原に位置し、北と西に山を控えるため気候は温暖である。年平均気温は約15℃で、春城(常春の町)とよばれる。年降水量は約920ミリメートル。藤沢市と姉妹都市提携を結んでいる。
[青木千枝子・河野通博・編集部 2018年1月19日]
紀元前から滇池を中心に少数民族が居住し、漢の武帝の南征以後益州(えきしゅう)に属し、三国時代には晋寧(しんねい)郡と改称された。唐代に南詔(なんしょう)国が興るとこの地に東都の拓東城(のち鄯闡(ぜんせん)城と改名)を建て、宋(そう)代の大理国は鄯闡府とよんだ。元のフビライが大理国を滅ぼしたのち昆明一千戸所を置き、1276年雲南行中書省が設立されると、昆明県が置かれ、中慶路に所属して省の行政の中心地となった。明(みん)代に中慶路は雲南府と改められ、雲南府昆明県は雲南省の省都となった。清(しん)代末に昆河線(昆明―河口(かこう))が建設され、日中戦争中に畹町(えんちょう)鎮を経てビルマ(現、ミャンマー)と結ぶビルマ・ルート(援蒋(えんしょう)ルート)が通じ、中国南西部における外国との交通の要地となった。
[青木千枝子・河野通博 2018年1月19日]
市街は南北に盤竜江(ばんりゅうこう)が貫流し、成昆線、貴昆線(貴陽(きよう)―昆明)、昆河線、南昆線(南寧(なんねい)―昆明)、昆玉線(昆明―玉渓(ぎょくけい))、広大線(広通(こうつう)―大理(だいり))、高速鉄道の長昆旅客専用線(長沙(ちょうさ)―昆明)と、滇緬(てんめん)(昆明―瑞麗(ずいれい))、昆洛(昆明―打洛(だらく))、京昆(北京(ペキン)―昆明)、広昆(広州(こうしゅう)―昆明)などの自動車道が通る。市街北東部には2012年開港の昆明長水国際空港がある。
周辺の工業地帯には、機械、冶金、タバコ、紡績などの工場がある。市域の県では、リン、ボーキサイト、鉄、コバルト、鉛、銀などの鉱山や一平浪(いちへいろう)の炭田もある。名産として、麺料理の過橋米線、キノコ、碁石が有名。
[青木千枝子・河野通博・編集部 2018年1月19日]
市街には、南詔国時代の仏教建築である東寺塔と西寺塔、円通寺、清末の雲南陸軍講武堂などの旧跡や、雲南の民族文化を展示する雲南省博物館、昆明世界園芸博覧園、翠湖(すいこ)公園などがある。郊外には、石林、滇池、西山竜門、石寨山(せきさいざん)古墓などがある。なかでも石林のカルスト地形は、2007年ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「中国南方カルスト」の構成資産として、世界遺産の自然遺産に登録された(世界自然遺産)。
イ族の火把節(かはせつ)、タイ族の水掛け祭り、ペー族の繞三霊(ぎょうさんれい)など、少数民族の伝統行事が行われることでも知られる。
[周 俊 2018年1月19日]
中国,雲南省中部の市,雲貴高原の中央部,滇池(てんち)の北岸にある省人民政府所在地。人口304万(2000)。行政上富民県など6県と2自治県を管轄する。鉄鋼業など工業も発達し中国西南部の経済中心である。夏冬の温度差が小さく,またツバキ,ツツジなど豊富で,〈春の都〉〈花の都〉とも呼ばれる。古くは西南夷の地で,昆明とはその一部族の名称であった。漢の武帝は益州郡をおいたが,この地域は穀昌県に属した。三国の蜀のとき,諸葛亮(孔明)の南征により建寧郡が成立,6世紀には昆州さらに昆川となり益寧県に変わった。765年には南詔がたち,漢の勢力は後退,拓東城のちの鄯闡(ぜんせん)城が設けられた。13世紀,元によってはじめて昆明県が置かれ,雲南行中書省の中慶路に帰属,以後雲南の政治中枢として発展する。この間,筇竹(きようちく)寺,円通寺などが建立され仏教が栄えた多数の商人と工匠がいる主都ヤチYachiについて,マルコ・ポーロは記述を残しているが,これは昆明のことをさすとされている。清初の三藩の乱のとき,呉三桂は昆明を根拠地とした。1908年(光緒34)清仏条約によって貿易都市として外国に門戸を開放,1928年市街地域が市に昇格,53年昆明県を合併し拡大した。なお,第2次世界大戦中は,いわゆるビルマ・ルートの主要地として軍需物資が集積され,市の発展を促した。
執筆者:駒井 正一
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…2地区級市,7地区,8自治州からなり,さらにこれらが127県級行政地域(4市轄区,15市,79県,29自治県)に区分されている。省都は昆明。北はチベット自治区,四川省,東は貴州省,広西チワン族自治区,南はベトナム,ラオス,西はミャンマーと接し,少数民族が30%をしめる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」