日本大百科全書(ニッポニカ) 「警職法反対闘争」の意味・わかりやすい解説
警職法反対闘争
けいしょくほうはんたいとうそう
1958年(昭和33)10~11月の、警察官職務執行法改正に対する国民的反対運動。10月8日岸信介(のぶすけ)内閣は同法改正案を突然国会に上程した。同案は、法執行の重点を、個人の生命、安全、財産保護から「公共の安全と秩序」を守ることまで拡大することによって、警察官の警告、制止や立入りの権限を強化し、また「凶器の所持」調べを名目とする令状なしの身体検査や、保護を名目とする留置を可能にするという内容であり、国民に戦前の「オイコラ警察」を想起させた。上程に先だつ10月4日には日米安全保障条約改定第1回会談があり、安保改定に連動する動きであった。
この警職法改正への国民の対応はすばやく、3日後の10月11日に社会党、総評、全日農、護憲連合など7団体が共闘連絡会議を開催。会議は16日には66団体が参加する警職法改悪反対国民会議に発展し、加盟団体は11月7日現在396、組織人員は1000万人に達した。地方でも県単位の共闘会議が45都道府県で成立、中央では共闘から排除された共産党も27道府県で参加が認められた。反対運動の特色は、大衆娯楽誌『週刊明星(みょうじょう)』が「デートも邪魔する警職法」の特集を組んだことに象徴されているように、児童文学者協会、日本写真家協会、日本シナリオ作家協会、日本キリスト教女子青年会、全国の旅館業者が参加し、地域では同人雑誌グループ、山岳会などが参加するというかつてない結集の幅広さをもったことであった。統一行動は10~11月の間5波にわたり実施されたが、11月5日には労働者のスト・職場大会、街頭での抗議行動に400万人が参加した。この盛り上がりのなかで22日政府は改正を断念、戦後日本で議会外の運動が院内多数党に勝利した初の体験となった。岸内閣退陣要求にまで発展した世論は、その後皇太子妃決定によるいわゆる「ミッチーブーム」により水をさされたが、この闘争経験は次の安保改定反対闘争に受け継がれた。
[荒川章二]
『松浦総三編『昭和の戦後史 第3巻』(1976・汐文社)』▽『増島宏著『現代政治と大衆運動』(1966・青木書店)』