総評(読み)ソウヒョウ

デジタル大辞泉 「総評」の意味・読み・例文・類語

そう‐ひょう〔‐ヒヤウ〕【総評】

[名](スル) 全体にわたって批評すること。また、その内容。「秋の美術展を総評する」
《「日本労働組合総評議会」の略称》昭和25年(1950)7月、産別会議全労連に対抗し、組合主義の立場で結成された労働組合の全国的中央組織。その後戦闘性を強め、労働運動の中心的存在となった。平成元年(1989)連合の発足により解散。→連合
[類語]論評批評評論批判評価講評評語概評短評寸評合評時評時論高評酷評劇評書評選評月旦評コメント

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「総評」の意味・読み・例文・類語

そう‐ひょう‥ヒャウ【総評】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 全体にわたっての批評。概評。
    1. [初出の実例]「訓解の最初にのせてある総評の中にまぎらかしが多い」(出典:唐詩選国字解(1791)附言)
  2. [ 2 ]日本労働組合総評議会」の略称。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「総評」の意味・わかりやすい解説

総評 (そうひょう)

正称は日本労働組合総評議会。加盟組合員数,労働組合数ともに日本最大の労働組合全国中央組織(ナショナル・センター)であったが,1989年11月,総評は39年の歴史を閉じて解散した。傘下の組合の大部分連合(日本労働組合総連合会)に加入したが,これに反対する左派勢力は全労連(全国労働組合総連合),全労協(全国労働組合連絡協議会)を結成した。

総評は1950年7月11,12日の両日に開かれた結成大会で設立された。ここには次のような三つの流れが参加した。その一つは産別会議を脱退した単産であり,これは第2次大戦後の労働運動の主導権を握った共産党系の産別会議を批判する民主化運動に率いられたグループである。二つ目は日本社会党系の総同盟であり,三つ目はいくつかの中立組合である。この時点での参加組合は17,労働組合員数約377万人であった。この大会で採択された総評の綱領の前文には,総評の運動の基本理念が〈あらゆる自由にして民主的な労働組合の結集された力によって,労働者の労働条件を維持,改善し,その政治的,社会的地位の向上をはかり,日本の民主主義革命を推進するとともに,社会主義社会の建設を期す〉と述べられていた。さて,総評は51年の第2回大会で,全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対の〈平和四原則〉を決定する。また,この大会では前年の結成大会で採択された行動綱領の中に示されていた,国際自由労連にすみやかに加盟するという方針が変更され,それ以後,国際労働組織への加盟は単産の決定にまかせることになった。52年には講和条約が発効するが,総評は労働法規改悪反対闘争(労闘と呼ばれた)や破防法(破壊活動防止法)反対のゼネストを呼びかける。また同じ年,〈賃金綱領(総評賃金綱領)〉を発表し,大幅賃上げや最低賃金制度の実施を求める運動を活発に展開した。こうして,国際自由労連一括加盟,朝鮮戦争協力のために総評結成を援助した占領軍の思惑ははずれ,当時の事務局長高野実はこの時期の総評を〈鶏からあひるへ〉の転化だと評した。高野のあと事務局長となった岩井章(1955-70在任。国労出身)は太田薫(1958-66総評議長。合化労連出身)とともに総評を指導,〈太田・岩井ライン〉と呼ばれて高度成長時代の労働運動を代表するものとなった。ところで,こうした総評の政治路線や国際組織加盟方針の変更を批判する全日本海員組合や全繊同盟(現,ゼンセン同盟)などは総評を脱退し,これらが母体となって後の全労会議(全日本労働組合会議),同盟(全日本労働総同盟)へと展開していった。

次に,結成期以後の総評の主要な運動を課題別にみておこう。まず,賃金闘争では,1955年に総評加盟の8単産によって春闘が始められた。これは企業別組合による賃金交渉があまりにも企業業績によって左右されてしまうという欠点をカバーするために,春の時期に産業別や全産業的に統一的な賃金交渉を組織しようというものである。1950年代の終りころからの経済の高度成長にも支えられて,この賃金交渉方式は有効に働き,定着していった。60年には中立労連が加わって,春闘共闘委員会を結成し,60年代には〈ヨーロッパ並み賃金〉の実現を目指して大幅な賃上げを獲得していった。70年代に入ると,春闘では社会保障や税金など国民生活にかかわる制度的要求が〈国民春闘〉の名のもとにとり上げられることとなった。しかし,70年代中ごろから日本経済が低成長期に入り,国家財政も逼迫(ひつぱく)してくるにつれ,賃上げ幅も低下し,制度的な生活要求の実現も困難になってきた。かくして,当時〈国民春闘〉の再構築が労働組合の合言葉になった。

 次に雇用確保の運動についてみると,総評結成のころ,強力な緊縮政策がとられていたために,膨大な失業者がちまたにあふれていた。総評は個別企業レベルの解雇反対闘争を支援するとともに,平和経済国民会議を開いて,雇用拡大のための〈労働プラン〉を発表した。その後の高度成長期にも,産業構造の急激な変動にともなう雇用問題が発生した。その代表的なものが石炭から石油へのエネルギー転換による石炭産業での大量解雇であった。ことに三井三池鉱では10ヵ月に及ぶストライキが展開され,総評はこれに対して全面的な支援体制をとった。当時,日米安全保障条約改定阻止の運動が全国的に盛り上がっており,それがこの三池闘争と結合されて,第2次大戦後最大の争議に発展したのである(〈三池争議〉の項参照)。また,この時期,成長産業では新技術が広範に導入され,労働態様の変更や労働密度の高まりも急激であった。総評は高度経済成長や新技術の導入が労働者に被害を及ぼすことを警戒し,当時,盛んになった生産性向上運動に対しても批判的な態度をとった。低成長経済に移行して以降,経営者は減量経営を強行したが,総評は国家や自治体による制度的な雇用保障の確立を求め,また労働時間短縮による雇用機会の拡大などに努めた。

 労働組合の基本的諸権利の確立という課題では,総評労働組合員の2/3以上を占めている官公労働組合の基本的諸権利の回復がことに重要な課題であった。1960年代の前半に総評は団結権の擁護に関するILO87号条約の批准を求める運動を強力に展開した。この条約は65年に批准されたが,その後も争議権の回復が大きな課題となった。75年には総評傘下の国労,全逓,全電通などが8日間にわたる全面的なストライキ(スト権スト)で争議権の回復を政府に迫った。だが懸案は解決せず,その後も総評と政府の間の重大な争点として残された。

 結成後間もなく,総評が〈平和四原則〉を決めたことは先に触れたが,その後も平和と民主主義を守る運動に総評は熱心に取り組んだ。その中心的目標は平和憲法の擁護と原水爆禁止であり,このために目的を同じくする政党や民主団体と協力して運動を進めた。総評は大会決定で日本社会党を支持していたが,それは社会党との間に政策の一致点が,憲法問題をはじめとして多くあることによるものであった。原水爆禁止運動では,1955年以降,毎年8月に世界大会が開かれ,総評はその中心的なメンバーとして参加した。60年代から70年代中ごろまで,この大会は社会党系と共産党系に分裂していたが,77年には統一が回復された。こうして,82年には広島,東京,大阪などで反核・軍縮を求める大集会を開き,この年ニューヨークで開かれた国連軍縮特別総会には3000万人の署名を届けている。

総評加盟の主要単産としては鉄鋼労連,全国金属(現,金属機械),私鉄総連炭労全電通電通労連として加盟),国労,動労(現,JR総連),自治労日教組などがあったが,同盟と比べて官公労の比重が大きいのが特徴的であった。

 国際活動についてみると,先に述べたように,総評は国際労働組合組織に加盟しなかった。しかし,総評傘下の8単産は国際自由労連(ICFTU)に加盟し,4単産が世界労連(WFTU)の産業別インターに加盟していた。また,総評の主力単産のほとんどが,国際自由労連とつながりの深い国際産業別組織(ITS)に加盟していた。なお,総評は1978年にOECDの労働組合諮問委員会(TUAC)に加盟した。総評の国際活動は長らく社会主義国の労働組合との交流が主だったが,1970年代末からは資本主義国の労働組合との交流を拡大し,解散の年,1989年に国際自由労連に加盟した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「総評」の解説

総評
そうひょう

日本労働組合総評議会の略称。1950年(昭和25)に設立された労働組合のナショナル・センター。日本共産党の影響力が強かった産別会議に対抗して,民同派と総同盟主流派が連合し,GHQの支持のもとで結成された。しかし51年に再軍備反対や全面講和など平和四原則を掲げ,「ニワトリからアヒル」に転化したといわれた。春闘を組織して反合理化闘争を進め,また日本社会党と強力なブロックを作り,平和運動などでも大きな役割をはたした。60年代に同盟が組織されて労働戦線が二分され,民間企業では後者が優位を占めたため,総評は主たる基盤を官公部門においた。87年に傘下の民間労組が同盟の労組などとともに連合を作り,89年(平成元)連合が官公部門を含む組織に改組されたのにともない解散した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「総評」の意味・わかりやすい解説

総評【そうひょう】

日本労働組合総評議会

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「総評」の意味・わかりやすい解説

総評
そうひょう

日本労働組合総評議会

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「総評」の解説

総評
そうひょう

日本労働組合総評議会

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「総評」の意味・わかりやすい解説

総評
そうひょう

日本労働組合総評議会」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の総評の言及

【圧力団体】より

…さらに進んで圧力団体がその幹部を議員候補者として政党に提供することも,まれではない。この点で際だっているのが日本の総評で,社会党の衆参両院議員の過半数は,現在総評出身者によって占められている。圧力団体活動の第2の側面は,議会に対する〈圧力活動〉である。…

【国民文化会議】より

…総評のよびかけで,1955年に発足した文化運動団体。総評や中立労連系の労働組合やサークルと,その労働運動に理解をもつ学者,芸術家,ジャーナリスト,文化団体が集まって新しい文化の創造をめざした。…

【新産別】より

…したがって,共産党フラクションによる組合への介入に反対すると同時に,レッドパージにも組合員の思想信条の自由を侵すものとして反対の態度をとった。また当初,総同盟左派とともに総評結成の準備運動に加わったが,総評結成がアメリカ占領軍総司令部の誘導によって進められたことに対し強く総司令部に抗議してその結成大会には参加せず,一時総評に加盟した(1950年11月~52年7月)ものの,再び脱退した。政治的には平和四原則(再軍備反対,軍事基地反対,中立堅持,全面講和)を基調に,米ソの対立を色合いの異なった帝国主義の対立と規定し,そのいずれからも厳に中立を保つべきであるという〈第三勢力論〉を展開,社会主義平和勢力論と対峙した。…

【全労会議】より

…1954年4月総同盟,全繊同盟(現,ゼンセン同盟),海員組合(海員),全映演の4組織,約85万組合員で結成。 全労会議の結成には総評の方向転換が大きくかかわっている。総評は民主的労働組合の戦線統一を目的として1950年に組織されたが,朝鮮戦争(1950)や対日講和条約の締結(1951)など揺れ動く社会情勢を背景として大きく左転換し,第2回大会で国際自由労連加盟を否決するまでになった。…

【高野実】より

…第2次大戦後は総同盟左派に所属,社会党左派とも連携をとり,47年には経済復興会議を提唱し,実現させた。同時に民主化同盟と連携して労働組合の主導権を共産党から奪還することに努力し(〈民同運動〉の項参照),50年の総評結成の主役を演じた。51年総評2代目事務局長に就任,平和四原則を推進するなど,その戦闘化を主導した。…

【炭労】より

…52年4月,破防法反対闘争第1波ストを回避した執行部を大会で不信任,これを機に炭労は企業内組合色の払拭(ふつしよく),産業別統一闘争指向を鮮明にして,戦闘的労働運動に転換していく。同年11月,賃金闘争で単産規模としては例のない63日間にわたる長期ストを行い,労働運動界のリーダー的地位を確立するとともに,みずから結成に力を尽くした総評(初代議長には当時の炭労委員長が就任)の中核単産として1950年代から60年代初頭にかけて,日本の労働運動の牽引車的役割を果たした。しかし,エネルギー革命のもとで展開された三池争議の終結とともに逐次後退を余儀なくされ,現在に至っている。…

【連合】より

…これにともない,従来のナショナルセンターのうち,同盟中立労連は解散し,新産別も1年後の解散を決定した。民間連合は88年2月から官民統一をめざして,総評の中心である官公労,旧同盟系の友愛会議全官公との首脳会談を開始し,89年6月までに(1)民間連合の基本文書〈進路と役割〉の尊重,(2)国際自由労連加盟,(3)民間連合に反対する統一労組懇には毅然たる態度をとる,の3重要事項などで合意をみた。これにより民間連合と官公労の統一が決定したが,総評系の自治労・日教組などでは反主流派がこの統一に反対して分裂,これらは反連合の全労連に参加することとなった。…

【労働運動】より

…これに対して産別会議は,共産党の極左的な運動による威信の失墜に加えて,朝鮮戦争の勃発を機とするレッドパージによって企業のなかの活動家を失ったこともあって影響力を喪失し,またこれに対抗する勢力としての民同は,〈経営民主化〉をうたいながらも事実上はそれを棚上げした生産復興闘争に矮小(わいしよう)化していったため,有効な反撃を組織しえないまま企業組合主義のなかに埋没していった。こうして,50年7月民同勢力の結集体として総評が成立したころは,企業秩序の再編が進展するなかで労働組合が活力を失い,労働者の不満が鬱積(うつせき)していった時期であった。
[第2期(1951‐60)]
 (1)占領軍のバックアップのもとに成立した総評は,51年3月の第2回大会を機に民同勢力の左右への分解をはらみながら〈ニワトリからアヒルへ〉と変貌を遂げていった。…

【労働組合】より

…(2)多数の業界に所属する主として中小企業の組合を産業別に組織している型。全金同盟(現,ゼンキン連合),総評・全国金属(現,金属機械),合化労連,全化同盟(現,CSG連合),食品労連(全日本食品労働組合連合会)などがこれであり,加盟組合が多業種にわたるため,多くはその中に業種別部会を設けている。(3)業種・産業に関係なく,中小企業の組合を加盟させている型。…

【労農提携】より

…戦後,農地改革で地主小作関係は解体し,農民運動も変化したが,独占資本の搾取と収奪に反対する運動のなかで,労働組合と農民団体の提携が追求されている。とくに,58年総評の運動方針に〈労農提携〉が掲げられて具体的な運動となり,同年10月,総評と全日農共催により〈労農提携を進める中央集会〉が開かれ,各地で労農提携集会がもたれた。【梅田 俊英】。…

※「総評」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android