讚岐典侍(読み)さぬきのすけ

精選版 日本国語大辞典 「讚岐典侍」の意味・読み・例文・類語

さぬき‐の‐すけ【讚岐典侍】

  1. 讚岐典侍日記」の作者本名藤原長子。父は讚岐入道藤原顕綱(あきつな)、姉は藤原俊成の外祖母伊予三位兼子で、共に歌人堀河天皇の典侍(てんじ)となり寵愛をうけたが天皇の死により宮中を退く。のち白河院の命により鳥羽天皇に仕えたが病で退いた。生没年不詳。

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朝日日本歴史人物事典 「讚岐典侍」の解説

讃岐典侍

没年:没年不詳(没年不詳)
生年承暦3頃(1079)
平安後期の典侍,歌人。『讃岐典侍日記』の作者。名は藤原長子。父は藤原道綱の孫顕綱。姉伊予三位兼子が堀河天皇の乳母だった縁で,康和2(1100)年堀河天皇に出仕,典侍となる。天皇没後,白河院からの要請で鳥羽天皇にも出仕。幼少天皇への再出仕を期に亡き天皇への追慕を強くし,発病から死の前後の様子など,思い出を日記に綴った。それが『讃岐典侍日記』である。中宮が堀河天皇より19歳年長だったこともあり,同年配だった典侍が寵愛を受け,天皇の発病後は,側近たちが病の重さを認識しないうちから,事の重大さを悟って看病に明け暮れた。日記には,関白藤原忠実らが参上の折,重態にもかかわらず「御膝を高くなして」,傍らに「添い臥」す作者を隠してくれた天皇の心配りや,見舞いにきた中宮への複雑な心境,さらには,全身にむくみを生じ,ついには息が止まって冷たくなっていく天皇の肌の感触などが,冷徹なまなざしで赤裸々に描写されている。新帝に奉仕するなかでも,四季折々の行事に堀河の姿を思い,元永1(1118)年秋ごろから,堀河院の霊と称して中宮の懐妊や皇子誕生を予言するなど妖言を奏す。翌年秋,出仕停止。天皇との思い出に生きた後半生だった。<参考文献>玉井幸助『讃岐典侍日記全註解』,『国文学解釈と教材の研究』24巻4号

(服藤早苗)

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百科事典マイペディア 「讚岐典侍」の意味・わかりやすい解説

讃岐典侍【さぬきのすけ】

平安末期の1110年ころに成立した《讃岐典侍日記》の作者。讃岐前司藤原顕綱の女(むすめ)で,堀河院乳母伊予三位兼子の妹。名は長子。1100年堀河天皇に出仕,翌年典侍に任ぜられ,讃岐典侍と呼ばれた。日記に見られる病中の堀河天皇に対する悲嘆の様,献身ぶりから,その寵愛を受けていたと考えられている。堀河天皇崩御後,一度は宮仕えを退いたが,白河院の宣旨を受けて鳥羽天皇に仕えた。病を理由に出仕をやめてからの消息は不詳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「讚岐典侍」の意味・わかりやすい解説

讃岐典侍
さぬきのすけ

平安時代後期の日記作者。歌人の讃岐入道藤原顕綱の娘。本名,長子。康和2 (1100) 年堀河天皇に出仕し,翌年典侍 (てんじ) となる。以後,嘉承2 (07) 年天皇が崩御されるまで側近に仕え,寵愛を受けた。同年 10月,白河上皇の懇請により5歳の新帝鳥羽天皇に仕え,即位式にはけん帳をつとめた。元永1 (18) 年精神障害をきたし,兄道経に預けられた。以後の消息は不明。『讃岐典侍日記』は堀河天皇の崩御の前後,および鳥羽天皇に仕えた1年余のことを記した回想記。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「讚岐典侍」の解説

讃岐典侍 さぬきのてんじ

1079?-? 平安時代後期の女官。
承暦(じょうりゃく)3年?生まれ。讃岐入道藤原顕綱の娘。康和2年堀河天皇につかえ3年典侍となる。のち鳥羽天皇にもつかえた。「讃岐典侍日記」には,堀河天皇死去前後の宮中のようすが記述されている。名は長子。

讃岐典侍 さぬきのすけ

さぬきのてんじ

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