谷城跡(読み)くずやじようあと

日本歴史地名大系 「谷城跡」の解説

谷城跡
くずやじようあと

[現在地名]芝川町下稲子、山梨県南巨摩郡南部町十島

駿河と甲斐国境の葛谷峠(標高二三五メートル)の尾根上に築かれた戦国時代の城。富士川が大きく屈曲している地点の北岸にあたる。従来「甲斐国志」や「駿河志料」等で、砦とか狼烟場と解釈されてきたが、平成二年(一九九〇)から同三年にかけての全面発掘調査により、実戦的な山城縄張りが明確となった。山頂を南北に削平して、本曲輪(方形)と二の曲輪(舟形)を直線的に配置した連郭式縄張りである。両曲輪とも、土塁を巡らして中間で仕切り、その東端に虎口を設けて曲輪内を連結した。主郭部の東斜面に階段式に腰曲輪を三ヵ所設け、その外方に段差と屈曲部を付け、北端土橋に達する長大な横堀(屈曲部あり)を配置した。


谷城跡
たにじようあと

[現在地名]市川町谷

谷集落の北側に位置する中世の山城跡。標高二〇六メートルで、山麓からの比高は約一〇〇メートル。北側の尾根伝いに鶴居の稲荷山つるいのいなりやま城へ連絡できる。稲荷山城は永良山ながらやま城ともよばれた(播磨鑑)。大永二年(一五二二)但馬の山名誠豊が播磨に進攻した際(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)、拠点とした「長良の城」(赤松記)は稲荷山城と推定されるが、谷城も併せて利用された可能性がある。


谷城跡
たにじようあと

[現在地名]勝山市北谷町谷

奥河内おくのこうち谷の右側の小高い地にあった中世末期の城跡。「柴田監物旅陣」とも「一揆籠」ともいわれる(越前国城蹟考)。天正五年(一五七七)七山家ななやまがの一向一揆が、寺尾てらおの西脇惣左衛門や皮合こうごの斎藤甚右衛門を中心として柴田監物(義宣)と戦い、籠城した所といわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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