谷村陣屋跡(読み)やむらじんやあと

日本歴史地名大系 「谷村陣屋跡」の解説

谷村陣屋跡
やむらじんやあと

[現在地名]都留市中央二丁目

宝永元年(一七〇四)の谷村藩主秋元氏の武蔵川越移封に伴って幕府領となった都留郡を管轄した陣屋。谷村代官所ともいう。秋元氏の重臣高山甚五兵衛(源五郎)の旧宅を陣屋とし(甲斐国志草稿)跡地は現在の都留簡易裁判所にあたる。陣屋取立てについての史料には恵まれないが、陣屋敷地は塀で総囲いされており、天保九年(一八三八)の郡中賄いについての代官お尋ねに対しての返答書(渡辺洋男家文書)によれば、総囲い内に本陣一・長屋四のほか囲籾蔵四・番小屋一があり、稲荷社も祀られていた。年貢を収納した米蔵は現上谷かみや一丁目の都留市役所あたりに置かれ、陣屋付きの牢屋は秋元氏時代からの牢屋が使用された。基本的には陣屋へ御用もなく立入ることは陣屋役人と村役人のなれ合いを防ぐためからも禁止されていた。しかし火事などの場合も含め人足が火急に必要な場合、陣屋との地理的位置とその村における家柄を勘案して、番小屋にみせるのであろう入陣許可の門札が手渡されており、天明五年(一七八五)には五枚が発行されていた(「門札預書上」東京都小俣信雄氏所蔵近藤家文書)

〔代官の変遷〕

秋元氏の転封が完了した宝永二年三月には、幕府代官町野惣右衛門・清野与右衛門が都留郡へ触書を出している(「幕府代官諸法度廻状」小林時政家文書など)。私領から幕府領への変化に伴い、幕法と先の城主(秋元家)の法度を順守することが記されている。ただし同年一二月の加畑かはた村ほか村々への年貢割付状(森嶋芳彦家文書など)は幕府代官平岡次郎右衛門・同彦兵衛から出されている。江戸前期の甲府城番時代に、代官触頭という代官衆の長として甲府徳川家成立まで活動した平岡次郎右衛門和由・勘三郎良辰父子がいたが、前記の次郎右衛門はこの良辰の子信由、彦兵衛は信由の養子良久である(寛政重修諸家譜)。彦兵衛は柳沢吉保への国中くになか三郡引渡しの事務処理にあたっており(甲府市史)、この関係から町野氏・清野氏でなく、平岡両人が秋元氏転封後の都留郡の年貢徴収に関与したものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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