越智村(読み)おちむら

日本歴史地名大系 「越智村」の解説

越智村
おちむら

[現在地名]緑区越智町・大野台おおのだい

大木戸おおきど村の北西にあり、村田むらた川が流れる。中央部に灌漑用の大藪おおやぶ池がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に山辺やまべ郡越知村とみえ、高一五四石余。寛永九年(一六三二)から旗本三島領になったと考えられ、延宝七年(一六七九)には同領が確認できる(貞享三年「覚書」鳰川家文書)。以後幕末まで同領。文化元年(一八〇四)高持百姓は寺を除いて五九軒で、文政一一年(一八二八)当時農業のみは五三軒、居酒屋商い三軒、ほか三軒で、人数二一九(石井家文書)


越智村
おちむら

[現在地名]高取町大字越智

曾我川東岸の谷間村落。東は与楽ようらく村・寺崎てらさき村。現地発音はオウチ。「日本書紀」天武天皇八年三月七日条には「天皇、越智に幸して、後岡本天皇陵を拝みたてまつりたまふ」、「続日本紀」延暦二年(七八三)四月二〇日条に「授正六位上贄田物部首年足外従五位下、以築越智池也」とある。「万葉集」巻二には

<資料は省略されています>

のほか、「越智野」「乎知野」があり、寿永元年(一一八二)の東大寺御油荘田堵注文(東大寺文書)に「南ヲチニ四人、北ヲチニ六人」とあり、当時すでに南越智みなみおちと現橿原かしはら市の北越智に分れていた。


越智村
おちむら

旧愛知郡内の中世村落。国衙領。弘安五年(一二八二)七月付尾張国千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)に、重枝次郎丸名畑として「愛智郡西条越智村十丁大」とみえる。同文書によれば、愛知郡西条には千竈ちかま郷に属する越智里および越智樋田がある。条里制が施行された地域の越智里との関連で、後に開発された田地が越智樋田、畑地を中心とする地域が越智村と称されたと推定される。

一方暦応三年(一三四〇)、近衛家領富田とみた(旧海東郡)と宣政門院領一楊ひとつやなぎ御厨余田方(旧愛知郡)との境相論に関して現地視察した上条篤光および荒尾宗顕の請文(円覚寺文書)に、「冨田庄雑掌差申古河之古跡者、冨田庄与一楊御厨両方無異論、御厨河々上付彼河東在所在之、即加検知之処、或柳生、或野畠候、南部弥六所領越智村云々」とあり、愛知・海東かいとう両郡および両所領の境をなしていた御厨みくりや(現庄内川)の東岸に位置する古河跡付近が越智村であった。


越智村
おちむら

[現在地名]松山市越智町おちまち

松山平野の南平坦部に位置する農村。北と東は星岡ほしのおか、東は今在家いまざいけ、南は土居どい(久米郡)、西は石井いしいの各村に接し、村域は東西に長く南北は短い。天保六年(一八三五)一二月に越智郡大三島おおみしまの人々が移住して、北土居村から八町余、星岡村から五町一反余、東石井村から五町余の田畑を合わせて越智村を新設した。その後明治四年(一八七一)に解村して前三ヵ村に付属、翌五年合併して土居村北分越智組と称したが、明治一二年に再び越智村を独立させた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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