横井村(読み)よこいむら

日本歴史地名大系 「横井村」の解説

横井村
よこいむら

[現在地名]香南町横井

由佐ゆさ村の西にあり、ふる川流域の讃岐山脈から張出した丘陵に連なる洪積台地に立地。冠尾かむりお八幡宮(現冠纓神社)の文明七年(一四七五)一一月一五日の放生会頭番帳(由佐家文書)地名を冠した末時、また当地の通称地名田井たいを冠した左衛門大夫がみえる。寛永国絵図に横井とみえるが、高は井原いのはら郷に一括されている。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高三六九石余。


横井村
よこいむら

[現在地名]神戸町横井

揖斐いび川右岸に位置し、南は村・一色いつしき村。天正年間(一五七三―九二)のものと推定される美濃惣坊主衆支配之定(西円寺文書)に「ヨコイ永徳寺 上」と当地の真宗高田派永徳えいとく寺の寺格が記される。また同年間頃のものと推測される龍徳寺々領目録控(龍徳寺文書)には「五貫文 横井」とある。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳では村高六六四石余、正保郷帳では田高六三七石余・畑高九九石余、村高は天保郷帳八〇〇石余、旧高旧領取調帳七三六石余。明治五年(一八七二)の村明細帳によると、村高八〇〇石余、前々永引高八石余、田三九町二反余・畑二六町一反余、家数八七・人数三二七、馬二五、大工一がいた。


横井村
よこいむら

[現在地名]中村区横井町、中川区横井・横前よこまえ町・川前かわまえ

西は庄内川に接し、北を岩塚いわつか村と接する。東西に長く、村内に岩塚村飛地がある。富田庄絵図(円覚寺蔵)によれば、庄内川を隔てた横井村付近は一楊ひとつやなぎ御厨と記され、松と推定される大木と草生および家屋が描かれている。富田とみた庄と一楊御厨との境界紛争に際して現れる越智おち村もこの付近をさす。「尾張名所図会」によれば、以前棟札に「文明歳中乙巳前田氏祈祷所横井村」という記述があったという。集落は庄内川堤下にあり、天保村絵図に「社内」と記されるように、高野たかの(現高野宮社)を中心に家屋が連なる。


横井村
よこいむら

[現在地名]袋井市横井

豊田とよだ郡に所属。太田おおた川中流域左岸に位置し、南は小山おやま村、東は徳光とくみつ村。中世は山名やまな庄のうち。永禄一一年(一五六八)一二月二八日の徳川家康判物(久野文書)山名庄のうち横井郷とみえ、家康は同郷を含む七ヵ郷ほかを久野くの城主久野宗能の息千菊に与えている。正保郷帳に村名がみえ、掛塚藩領、田方四一石余・畑方二八石余。寛文四年(一六六四)の加々爪直澄領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、同藩領。


横井村
よこいむら

[現在地名]和良村横野よこの

鬼谷おんだに川左岸にあり、南は下野したの村。元禄郷帳に村名があり、高三八石余。もと郡上藩領で、元禄六年(一六九三)旗本井上正長領、正徳二年(一七一二)以後幕府領。「寛文朱印留」に村名がみえないが、寛文一〇年(一六七〇)には遠藤常友により検地が行われており、この時の新村とみられる。天保一〇年(一八三九)石代金納一件につき、高山陣屋へ越訴した和良筋幕府領七ヵ村の赦免を求め、当村庄屋は幕府領一一ヵ村惣代の一人として下川辺しもかわべ陣屋(現加茂郡川辺町)へ願出ている(「七ヵ村一件書類留」吉田文書)


横井村
よこいむら

[現在地名]奈良市横井町

藤原ふじはら村の西にある。保元元年(一一五六)一一月の元興寺五師永覚譲状(春日神社文書)に「又馳上田三反 横井桑原田二反」とみえ、承久三年(一二二一)一一月の僧貞俊田地売券(東大寺文書)に「大和国横井田相博了」と記す。建治元年(一二七五)一一月一五日の隆全田地寄進状案(元興寺中門堂懸板銘)には「横井弐反所当一石四斗」とある。また永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録には「横井字藤原」とみえ、中世には「横井庄」(多聞院日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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