越水城跡(読み)こしみずじようあと

日本歴史地名大系 「越水城跡」の解説

越水城跡
こしみずじようあと

[現在地名]西宮市城山・桜谷町・越水町など

近世初頭頃までの山陽道に面した標高二二メートルの丘陵上にある。城跡の南・東側は西摂の平野が広がり、北西側には六甲ろつこう山の山系が迫る。城跡の立地する丘陵はこの山系の末端にあたる。築城は瓦林政頼(正頼)といわれ、永正一六年(一五一九)頃に鷹尾たかお(現芦屋市)から、西宮の北八町にある小清水こしみずの地に家城を築き移ったという(細川両家記・瓦林政頼記)。ただし観応二年(一三五一)二月、足利直義派の挟撃を察知した守護赤松範資が、足利尊氏・高師直軍に神尾かんのう(神呪)十林寺じゆうりんじ(鷲林寺)小清水辺りで戦えば勝てると注進、尊氏軍はこれに従って播磨から東進するが「小清水ノ軍に打負」けたとされ(「太平記」巻二九)、なんらかの勢力が付近にはあったと思われる。

「瓦林政頼記」によると、越水城の築城の様子は「毎日五十人、百人シテ堀ヲホリ壁ヲヌリ土居ヲツキ矢倉ヲ上ケレハ鍛冶・番匠・壁塗・大鋸引、更ニヒマコソナカリケリ」というものであったという。政頼は同城を常の居所とし、「外城」には子息一族を、そのほかの家臣は西宮にそれぞれ居住させ、摂津では無双の大名であったと記している。なお「聾盲記」永正一七年二月三日条に「河原林城号小清水」とあるように、城主の名にちなんで河原林かわらばやし城ということもあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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