越畑村
こしはたむら
[現在地名]右京区嵯峨越畑〈荒堀・上大谷・上正権条・上新開・上中溝町・北ノ町・北ノ谷・下大谷・下新開・下中溝・正権条・正権谷・尻谷・筋違・大円・大根谷・竹ノ尻・手取垣内・天慶・中条・中ノ町・中畑・鍋浦・兵庫前町・南下条・南ノ町・向山・桃原・桃原垣内〉
北は丹波国神吉村(現京都府船井郡八木町)、西は丹波国旭村(現亀岡市)、南は原村、東は丹波国細野村(現北桑田郡京北町)に接し、四方を山でふさがれた山間である。往古腰畑邑といい、天応元年(七八一)に愛宕山白雲寺領となったという。永禄一〇年(一五六七)に書かれたという「村由来記」(村瀬芳巳家文書)によると、弘仁五年(八一四)以来四人の定住で始まった当村は、天安元年(八五七)には八軒となり、貞観二年(八六〇)に坂上田村麻呂の妻薩
御前が清水寺(現東山区)創建の協力者雲平・竜徳の二人を当地に訪ね、貞観四年には田村弘道らが妻子一〇人を引連れて居住することになり一八軒となった。
越畑村
こしはたむら
[現在地名]鏡野町越畑
香々美川の源流に位置し、東は原口村・宇野村(現加茂町)、西は奥津村・長藤村・下才原村(現奥津町)、南は岩屋村、北は上才原村(現上齋原村)に接する山村。正保郷帳に村名がみえるが村高を欠く。「作陽誌」では高五四石余、うち田方三三石余・畑方二一石余、家数四一・人数一七八。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高二〇石余、開高二七石余。同年の美作国郷村帳では越畑村八三石余と越畑村鉄山分一八石余と記され、「作州記」も同内容である。「作陽誌」の目次の項に「付鉄山跡」と記される。鉄山分とは鉄穴流しによる新田やたたら跡を耕地化したものである。
越畑村
おつぱたむら
[現在地名]嵐山町越畑
吉田村・勝田村の西、市野川左岸の丘陵・低地に位置し、南は杉山村。天正一八年(一五九〇)五月前田利家は三ヵ条の禁制(鈴木文書)を「武州ならなし・おつはた」に下している。「風土記稿」によると北条氏邦に仕えていた船戸浄氏は同年の鉢形城(現寄居町)落城後、当地に来て帰農土着し、慶長九年(一六〇四)に没したという。松山領に属した(風土記稿)。田園簿では田高三一〇石余・畑高一五七石余、旗本高木領。
越畑村
こえはたむら
[現在地名]矢板市越畑
安沢村の南、内川右岸の沖積地に位置する。内川の河床が低いため八ヵ所の天水池を造り利用する。近世はおおむね喜連川藩領。慶安郷帳では高四〇石、田方二八石余・畑方一一石余。元禄郷帳では高五三石余、旧高旧領取調帳では高六四石余。文化五年(一八〇八)の家数一一、男二〇・女二四、寺一(真言宗医王寺)・祠三・堂一(「村書上帳」矢板市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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