室町前期の武将。鎌倉公方(くぼう)第2代足利氏満(うじみつ)の子。1398年(応永5)父氏満の後を継ぎ21歳で鎌倉公方となり、従(じゅ)五位下左馬頭(さまのかみ)に叙任された(のち従四位下左兵衛督(さひょうえのかみ)となる)。翌1399年、南奥州の支配強化のため、弟の満貞(みつさだ)、満直(みつただ)をそれぞれ稲村御所(いなむらごしょ)、篠川(ささがわ)御所として南奥州に派遣した。また同年末、有力守護大名大内義弘(よしひろ)の乱(応永(おうえい)の乱)に荷担して上洛(じょうらく)を企てようとしたが、義弘の敗北と関東管領(かんれい)上杉憲定(のりさだ)の諫止(かんし)によって断念した。応永16年7月22日、32歳で病没。鎌倉の瑞泉寺勝光院(ずいせんじしょうこういん)に葬られた。法名は勝光院泰岳道安。
[田代 脩]
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(山田邦明)
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…義満・幕府中枢による謀略の有無を確かめながら,対抗策として反幕勢力の統合を策したのであろう。将軍と鎌倉公方との対立は,前代氏満のころから顕在化していたが,義弘は今川了俊を通じて公方足利満兼と気脈を通じ東西から幕府挟撃作戦を立てた。美濃の土岐詮直,近江の京極秀満らもこれに同調した。…
…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…
※「足利満兼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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