足利満兼(読み)あしかがみつかね

精選版 日本国語大辞典 「足利満兼」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐みつかね【足利満兼】

  1. 室町前期の武将。第三代関東公方。氏満の子。大内義弘反乱に呼応して将軍義満を打倒しようとしたが、義弘敗死と管領上杉憲定説得により阻止される。永和四=天授四~応永一六年(一三七八‐一四〇九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利満兼」の意味・わかりやすい解説

足利満兼
あしかがみつかね
(1378―1409)

室町前期の武将。鎌倉公方(くぼう)第2代足利氏満(うじみつ)の子。1398年(応永5)父氏満の後を継ぎ21歳で鎌倉公方となり、従(じゅ)五位下左馬頭(さまのかみ)に叙任された(のち従四位下左兵衛督(さひょうえのかみ)となる)。翌1399年、南奥州の支配強化のため、弟の満貞(みつさだ)、満直(みつただ)をそれぞれ稲村御所(いなむらごしょ)、篠川(ささがわ)御所として南奥州に派遣した。また同年末、有力守護大名大内義弘(よしひろ)の乱(応永(おうえい)の乱)に荷担して上洛(じょうらく)を企てようとしたが、義弘の敗北と関東管領(かんれい)上杉憲定(のりさだ)の諫止(かんし)によって断念した。応永16年7月22日、32歳で病没。鎌倉の瑞泉寺勝光院(ずいせんじしょうこういん)に葬られた。法名は勝光院泰岳道安。

田代 脩]

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改訂新版 世界大百科事典 「足利満兼」の意味・わかりやすい解説

足利満兼 (あしかがみつかね)
生没年:1378-1409(天授4・永和4-応永16)

室町前期の武将。足利氏満の子。鎌倉公方(くぼう)3代。幼名は寿王丸。将軍義満の偏諱(へんき)を得て満兼と称す。従五位下,左馬頭,のちに従四位下,左兵衛督となる。1399年(応永6)弟満貞,満直をそれぞれ奥羽に派遣し,稲村御所篠川(ささがわ)御所として支配せしめた。1404年に伊達政宗の乱が起こるや,上杉氏憲を派遣して鎮圧した。また1399年大内義弘が将軍義満打倒の兵をあげた応永の乱に呼応して出陣したが,義弘の敗死と関東管領上杉憲定の説得で鎌倉に戻り,異心なき旨を伊豆三嶋社に誓い,将軍義満に服した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利満兼」の意味・わかりやすい解説

足利満兼
あしかがみつかね

[生]天授4=永和4(1378)
[没]応永16(1409).7.22. 鎌倉
室町時代前期の武将。第3代鎌倉公方 (1398~1409) 。元中9=明徳3 (1392) 年以後新たに関東分国となった陸奥,出羽両国統治のため,応永6 (1399) 年弟満貞,満直を奥州篠川,稲村に派遣した。また同年,大内義弘が将軍義満にそむいて起した応永の乱に呼応し,京に攻め上るため武蔵府中まで進軍したが上杉憲定にいさめられ,鎌倉に帰った。のち幕府と和睦し,同9年,陸奥伊達政宗の反乱を鎮圧するなど,分国内の平定に努めた。

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朝日日本歴史人物事典 「足利満兼」の解説

足利満兼

没年:応永16.7.22(1409.9.1)
生年:永和4/天授4(1378)
室町時代の武将。鎌倉公方。氏満の子。左馬頭,左兵衛督。応永5(1398)年に21歳で鎌倉公方となる。翌6年弟の満貞・満直を陸奥稲村,篠川に派遣して南奥州支配の拠点を作り,その後反抗した伊達政宗を下した。一方で京都の足利義満に対して自立せんとの望みを抱き,同年,大内義弘と共謀して義満と戦おうとするが,重臣上杉憲定の説得と義弘の敗死(応永の乱)によってこれを中止した。公方の位にあること11年,同16年に32歳で死去。その治世は比較的平穏で,鎌倉府の安定期と評価できる。

(山田邦明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利満兼」の解説

足利満兼 あしかが-みつかね

1378-1409 室町時代の武将。
永和4=天授4年生まれ。足利氏満の長男。応永5年3代鎌倉公方(くぼう)をつぐ。弟の満直(みつただ),満貞を奥州に派遣して支配を強化。大内義弘が足利義満打倒の兵をあげた応永の乱に呼応して,将軍職をねらい武蔵(むさし)府中に出陣したが,義弘の敗死と上杉憲定(のりさだ)の諫言(かんげん)で断念し鎌倉にかえった。応永16年7月22日死去。32歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利満兼」の解説

足利満兼
あしかがみつかね

1378〜1409
室町前期の鎌倉公方
氏満の子。1399年大内義弘の応永の乱に呼応し上京しようとしたが,幕府の意をうけた管領上杉憲定 (のりさだ) に諫められて中止した。奥羽で伊達政宗(戦国大名の伊達政宗の祖先)が将軍足利義満と通じ反したのでこれを攻め降した。

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世界大百科事典(旧版)内の足利満兼の言及

【応永の乱】より

…義満・幕府中枢による謀略の有無を確かめながら,対抗策として反幕勢力の統合を策したのであろう。将軍と鎌倉公方との対立は,前代氏満のころから顕在化していたが,義弘は今川了俊を通じて公方足利満兼と気脈を通じ東西から幕府挟撃作戦を立てた。美濃の土岐詮直,近江の京極秀満らもこれに同調した。…

【鎌倉公方】より

…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…

※「足利満兼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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