足立長雋(読み)あだちちょうしゅん

精選版 日本国語大辞典 「足立長雋」の意味・読み・例文・類語

あだち‐ちょうしゅん【足立長雋】

  1. 江戸後期の医者多紀桂山漢方医学吉田長淑オランダ医学を学ぶ。「医方研幾」「産科集成」を翻訳。産科医として知られた。安永五~天保七年(一七七六‐一八三六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足立長雋」の意味・わかりやすい解説

足立長雋
あだちちょうしゅん
(1776―1836)

江戸中期の洋方産科医の鼻祖。武家井上正広の子として江戸に生まれる。薩摩(さつま)藩医足立梅庵(ばいあん)に師事し、その養嗣子となった。多紀元簡(たきもとやす)(桂山(けいざん))に漢方を、加賀藩医吉田長淑(ちょうしゅく)(1779―1824)に蘭学(らんがく)を学んだ。篠山(ささやま)藩医になったこともあるが、洋方産科医のいないのを憂えて自ら修業し、一家をなした。門人には牛痘研究者の井上宗端(そうたん)(1785―1861)や順天堂の開祖で佐倉藩医の佐藤泰然らがいる。内科医書『医方研幾』『産科礎(いしずえ)』などを記述した。

[末中哲夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「足立長雋」の意味・わかりやすい解説

足立長雋 (あだちちょうしゅん)
生没年:1776-1836(安永5-天保7)

江戸後期の蘭方医本姓井上氏。江戸に生まれ,薩摩藩医足立梅庵に師事し,その養嗣子となった。名は世茂,無涯と号した。多紀安長に漢方を,吉田長淑に蘭方医学を学び,丹波篠山藩侍医となった。師の吉田長淑の西洋内科に対し西洋産科を標榜し,最初の蘭方産科医として多くの後進を育成した。著訳書として《医方研幾》《同方剤編》《女科集成》《産科礎》等がある。
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朝日日本歴史人物事典 「足立長雋」の解説

足立長雋

没年:天保7.12.26(1837.2.1)
生年:安永4(1775)
江戸後期の西洋産科医。名は世茂,字は松文,号は無涯。広島(芸州)藩主浅野家の臣の井上正広の子。江戸生まれ。次女世輿は宇田川榕庵に嫁し,3女悦はその弟栄建を婿とする。薩摩藩医足立梅庵に学び,その養子となる。のち多紀元簡に師事し,丹波国篠山藩主の侍医になった。また蘭学を吉田長淑 に学んで,西洋医学書の翻訳に従事し,『医方研幾』(1831)を出版。長淑が蘭方内科で名を成したのをみて,西洋産科医を志し,ボードロックの助産婦書を訳して『産科礎』を出版した。西洋産科の祖と称される。弟子の小室元貞としばしば文通し,その門人伊古田純道は孫弟子に当たる。

(石原力)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足立長雋」の解説

足立長雋 あだち-ちょうしゅん

1776-1837* 江戸時代後期の医師。
安永5年生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩医足立梅庵(ばいあん)の養子。多紀元簡(たき-もとやす)に漢方,吉田長淑に蘭方医学をまなび,丹波篠山(ささやま)藩(兵庫県)藩医となる。はじめて西洋医学を産科に導入した。天保(てんぽう)7年12月26日死去。61歳。江戸出身。本姓は井上。名は世茂。字(あざな)は松文。号は無涯。訳書に「女科集成」「産科礎(いしずえ)」など。

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