デジタル大辞泉 「蹴鞠」の意味・読み・例文・類語
け‐まり【蹴×鞠】
2 古代以来、貴族の間で行われた屋外遊戯。数人が
〈しゅうきく〉ともいう。足で皮製の鞠(まり)を一定の高さにけあげて,墜落させることなく,正格な動作でける回数の多いのを優秀とする古典的な遊戯。すでに7世紀の半ば,中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が法興寺のツキ(槻)の木の下で鞠をけった話は有名であるが,12世紀ころから盛大になって,設備や技術の上にも一定の形式ができ,蹴鞠道としての完成をみるとともに,この種の芸道に関してはすべて技芸の中心的指導者による独占的家業として伝えられた。蹴鞠の演技者を鞠足(まりあし)といい,名手を上足(じようそく),未熟なのを非足(ひそく)という。練習は内鞠(うちまり),庭鞠(にわまり)といって室内や庭中でおこない,正式な競技に際しては懸(かかり)という特殊な施設をした地域でおこなった。懸は付近の建物より2間半以上離れた位置に,4本の木を3~4間を隔てて相対して立てるのを定めとする。木はもっぱらヤナギ,サクラ,マツ,カエデの4種で,これを4本懸といい,根のまま植えつけたのを本木(ほんぎ)と呼び,根を切って埋め立てたのを切立(きりたて)というが,いずれも高くけあげる鞠長(まりたけ)の関係から1丈5尺以上として,下枝は演技者の烏帽子(えぼし)のとどく程度とした。また庭上には猫搔(ねこがき)というわらで編んだむしろを敷いて風雨にそなえた。出場者は鞠足と野伏(のぶし)と見証(けんしよう)であり,鞠足は8人を普通とし,それぞれ木の下に2人ずつ配置される。野伏は鞠足の補助にあたり,見証は鞠足の行動や鞠の状態の監視をする。蹴鞠動作は,鞠足の地位や技能にしたがって,適当な懸の木を前にして,あるいは長く,あるいは短い継続時間で終了する。鞠はシカ皮製の白鞠または熏鞠(ふすべまり)を普通とし,演技に際してはマツまたはヤナギの枝に紙捻(こびねり)の緒で結びつけて持参するが,平常もていねいに取り扱い,ときには祭壇を設けて安置したので,近世にいたっては神として鞠の精をまつる風さえ生じた。鞠の装束も16世紀ころまでは改まった様式はなく,束帯,衣冠,直衣(のうし),狩衣(かりぎぬ),水干,直垂(ひたたれ)などの通常の装束でおこない,とくに運動の便から狩衣が多く用いられたが,天正(1573-92)ころから長絹(ちようけん)の直垂様式を上につけて葛袴(くずのはかま)をはくことが例となって,正式の鞠装束とみなされ,鞠水干(まりずいかん)の名称で呼ばれるようになった。蹴鞠の最盛期は12世紀から13世紀にかけてであって,その流行は宮廷内外だけでなく,鎌倉幕府にまで及んだ。藤原忠実は加茂の神主の成平を無双の達者と評しているが,その門に出たという藤原成通は,順徳天皇の《禁秘抄》に末代の人の信じがたいほどの技芸と伝えられている。成通の門下の逸才と知られた藤原頼輔の孫の宗長(難波(なんば)流)と雅経(飛鳥井(あすかい)流)のときからは流派を生じ,おおかたの方式はこのときにきまった。難波,飛鳥井の両流のほかに,藤原為家もこの道の達人として,その門流を御子左(みこひだり)流といった。また加茂の氏人(うじびと)たちの間には地下鞠(じげまり)がおこなわれた。難波流と御子左流は15世紀にはいって衰えたので,飛鳥井流が家職として蹴鞠道を独占して明治にいたった。
→蹴鞠(しゅうきく)
執筆者:鈴木 敬三
中国では,三皇五帝の一人黄帝(こうてい)が始めたと伝えられる。《史記》の蘇秦伝に〈蹋鞠(とうきく)〉のことが記されるから,戦国時代にはすでに存在していたとみられるが,古代の競技法はつまびらかでない。漢代には,武人の教練として大いに流行したようで,《漢書》芸文志(げいもんし)の兵家の条には〈蹴鞠二十五篇〉を著録する。当時はゴールに相当する〈鞠域〉を使用したらしい。鞠を落とさないように蹴りつづける競技法については,宋代に著された《蹴鞠図譜》に,1人でする〈一人場(いちにんじよう)〉や複数でする場合の蹴り方が記されている。その〈八人場〉は日本に伝来したものといわれ,また明の小説《水滸伝》には,高俅(こうきゆう)がのちの徽宗に腕前を披露するさまも描かれる。南北朝ころから寒食・清明節前後の行事となり,唐代に入ると,二つの〈毬門(きゆうもん)〉を設けた競技も出現した。これはサッカーに最も近いもので,宋代に〈毬門〉は一つとなり,清朝の中ごろまで行われた。鞠は,古くは革の中に毛をつめて作られたが,唐代には空気を入れた〈気毬〉も使用された。
→蹴鞠(けまり) →打毬
執筆者:堀 誠
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鞠を蹴る遊戯で、古くは「くえまり」といい、音読して「しゅうきく」ともいう。懸(かか)りと称する四隅にヤナギ、サクラ、マツ、カエデを植え、砂を敷き詰めた2丈四方(約3メートル平方)ほどの場所で行う。普通2人ずつ8人が前記の木の下に立ち、松樹の上鞠(あげまり)(上手の者)から順に掛け声とともに三度蹴って次に渡していく。服装は、平安時代には直衣(のうし)が主であったが、のち狩衣(かりぎぬ)から水干(すいかん)になった。
皇極(こうぎょく)天皇3年(644)正月に、中大兄(なかのおおえ)皇子、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが、法興寺で「打毱(だきく)」を行ったという『日本書紀』の有名な記事は、その古い例とみられる。延喜(えんぎ)(901~923)のころには王朝貴族の間で盛んに行われていたようであるが、院政期に至り賀茂成平(かもなりひら)、藤原成通(なりみち)といった名人が出るに及んで、技術、作法の整備が進んだ。鎌倉時代の初め、鞠の家として難波(なんば)、飛鳥井(あすかい)の両派が成立したが、室町時代に至って、蹴鞠が和歌と並ぶ風雅の道として称されるようになると、両家は幕府の師範としてその道の法式を確立した。現在も、京都の蹴鞠保存会などがその儀式を伝えている。
[杉本一樹]
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「しゅうきく」とも。古典的な競技の一つ。革製の鞠を一定の高さまで蹴りあげ,地に落とさず蹴り続けてその回数を競った。中国伝来の遊戯であるが,摂関期以後とくに盛んになり,蹴鞠道として完成。正式な競技には懸(かかり)という場を設け,柳・桜・松・楓の4本の木を四方に立て,ふつう8人の競技者(鞠足(まりあし))で行われた。13世紀には難波流・飛鳥井流などの流派が現れ,家業として独占された。これとは別に賀茂の氏人は地下(じげ)鞠を伝承した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…小麦粉を使うものには桜餅があり,江戸後期から名物として知られた東京向島長命寺の桜餅については《兎園小説》の中で屋代弘賢がおもしろい報告を行っている。道明寺(乾飯(ほしいい))を使うのは平安時代から名の見える椿餅で,どういう理由があるのか,蹴鞠(けまり)の催しのつきものとされていた。あんを入れるものと入れないものがあり,それを2枚のツバキの葉ではさむ美しい菓子である。…
…足で皮製の鞠(まり)を一定の高さにけあげて,墜落させることなく,正格な動作でける回数の多いのを優秀とする古典的な遊戯。すでに7世紀の半ば,中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が法興寺のツキ(槻)の木の下で鞠をけった話は有名であるが,12世紀ころから盛大になって,設備や技術の上にも一定の形式ができ,蹴鞠道としての完成をみるとともに,この種の芸道に関してはすべて技芸の中心的指導者による独占的家業として伝えられた。蹴鞠の演技者を鞠足(まりあし)といい,名手を上足(じようそく),未熟なのを非足(ひそく)という。…
…摂政太政大臣師実の五男の正二位大納言忠教を祖とする。その子頼輔は蹴鞠(けまり)に秀で,〈本朝蹴鞠一道長〉などと称された。頼輔の子頼経は源義経に党して伊豆に流されたが,その子宗長は蹴鞠の達人として難波流の祖となり,弟雅経も飛鳥井流の祖となった。…
…ちなみに,子推は寒食の由来となった介子推を指す。清明節の遊戯としては,墓参後にも行われた踏青の楽しい遊び以外に,鞦韆(しゆうせん)(ぶらんこ)遊びや打毬(だきゆう)(ポロ),蹴鞠(しゆうきく)(けまり),闘鶏などがある。鞦韆は唐・宋時代や遼代,婦人や子どもたちの楽しい活発な遊びとなり,唐の玄宗は半仙の戯と呼んだ。…
※「蹴鞠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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