ジュネーブに設けられている唯一の多国間の軍縮交渉機関で、1984年以前の軍縮委員会から発展した。現在でもジュネーブ軍縮委員会と通称されることがあるが、軍縮会議が正式名称。略称CD。国際連合の最初の軍縮委員会は、それ以前に活動していた国連原子力委員会と国連通常軍備委員会の機能を統合する形で、1952年1月に設置された。1954年4月、この委員会の下に5か国小委員会(アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、カナダ)が設けられたが、1957年にはソ連が同委員会の構成などを不満として不参加を表明、新たな機関の模索が始まった。その結果、まず国連内に全加盟国からなる国連軍縮委員会が1958年11月に設けられた。ついで1959年9月に「10か国軍縮委員会」の設置が決定され、1960年3月に発足した。10か国軍縮委員会は、ソ連の東西同数原則の主張に従って、東側の5か国(ソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア)と西側の5か国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、カナダ)から構成される交渉機関であったが、西側がこの機関構成原則を国連内に持ち込むことを嫌ったため、いちおう国連外の機関としてジュネーブに設置された(事務局機能は国連内)。この国連外の委員会を原型として、その後の専門的軍縮交渉機関は発展した。
同委員会はソ連の東西両陣営と非同盟諸国というトロイカ方式の主張に沿って、1961年12月、非同盟8か国を加え18か国軍縮委員会に拡大した。1969年8月には新たに8か国が加わり、名称も軍縮委員会会議(CCD)と改称された。1975年1月に再度拡大改組され、東西両ドイツなど5か国が参加した(計31か国)。この交渉機関は、最初の設立経緯からして米ソ主導の東西両陣営間の交渉機関という性格をもっていたが、これが実質的な軍縮を妨げるとして不満を抱く非同盟諸国の要求で、1978年5~6月に、第1回国連軍縮特別総会が開催された。この総会で1960年代なかば以降、休眠状態に陥っていた国連全加盟国からなる国連軍縮委員会の審議機能を復活するとともに、軍縮委員会会議も改組され、新たにフランス、中国を含む40か国からなる軍縮委員会(CD)が設置された。この委員会が1984年、現在の軍縮会議(CD)に名称を変更、1996年6月より23か国が加わり(61か国)、さらに1999年より現在の65か国となった。1960年代から核不拡散条約(NPT、1968年)、生物兵器禁止条約(BWC、1972年)、化学兵器禁止条約(CWC、1993年)など重要な条約の作成にあたった。最後の成果が包括的核実験禁止条約(CTBT、1996年、未発効)で、それ以後は実質的交渉はほとんど行っていない。議題採択の混乱を避けるため毎年会期冒頭に通年議題を採択するが、2010年の主要な議題は、核軍縮、分裂性物質生産停止条約(FMCT、核戦争防止議題の一つ)、宇宙軍備競争防止(PAROS)、非核兵器国に対する消極的安全保障供与(NSA)、放射性兵器等新型大量破壊兵器、などである。
[納家政嗣]
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(坂本義和 東京大学名誉教授 / 中村研一 北海道大学教授 / 2008年)
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…ENDC以来,欠席を続けていたフランスが出席し,中国も80年3月より参加した。なお,84年に〈軍縮会議The Conference on Disarmament〉(略称CD)と改称された。日本は1969年のENDC加入以来,一貫してメンバーとして活動を続け,CDの82年4月会期では議長を務めた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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