軍縮(読み)グンシュク

デジタル大辞泉 「軍縮」の意味・読み・例文・類語

ぐん‐しゅく【軍縮】

軍備縮小」の略。⇔軍拡

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精選版 日本国語大辞典 「軍縮」の意味・読み・例文・類語

ぐん‐しゅく【軍縮】

  1. 〘 名詞 〙ぐんびしゅくしょう(軍備縮小)」の略。⇔軍拡
    1. [初出の実例]「独り鞍の生産率がこの半年間に二・四%から一・一%に減じてゐるのは、蓋し赤軍軍縮の結果に外ならない」(出典:ロシアの復活(1924)〈荒畑寒村〉産業的復活)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「軍縮」の意味・わかりやすい解説

軍縮
ぐんしゅく

軍縮(軍備縮小)は、フランス語のdésarmement、英語のdisarmamentの訳語とされるが、厳密には一致していない。disarmamentは、もともと個人や軍隊、軍用艦船、軍事要塞(ようさい)などの武装解除の意味に用いられ、本来かなり実質的な軍備の撤去、解体、廃棄などをさしていた。近代以降のヨーロッパで、この語はしだいに敗戦国の武装解除のほか、国家間の取決めなどによる国家軍備の撤廃の意味に使われるようになってきたが、この場合も戦争防止を目ざす程度の高い軍備否定・撤廃を意味した。現代では軍縮は、こうしたもともとの軍縮思想からずれて、主として国際的な取決めに基づく各国軍備の多少の縮小、削減の意味で使われることが多い。さらに軍縮問題などという場合は、軍備の縮小や削減も含むが、それに至らない多くの関連諸措置を含む包括的な呼称として使われている。そこには後述する軍縮とは異なる考え方も含まれているので注意が必要である。

[納家政嗣]

軍縮の思想

軍縮の考え方が本格的に発展したのは、18世紀以降のヨーロッパにおいてであった。この時期のヨーロッパでは、強力な統一国家の形成、産業革命後の兵器技術の進歩、さらに市民革命後の国民軍の組織化などが進み、それが戦争の規模や様相をそれ以前の傭兵(ようへい)を中心とする王侯貴族間の私的な戦闘とは質的に異なるものにした。このため、軍縮思想は、なによりも戦争の手段を奪うことによって戦争を防止したり、制限したりすることを目的とする考え方であった。18世紀後半には、イギリスのベンサムやドイツのカントら思想家が、詳細なヨーロッパの平和計画Peace Planを発表したが、いずれもこのような常備軍の大幅な縮小構想を一つの中心としていた。以来、軍縮は今日に至るまで、とくに大戦争のあとなどに繰り返し強調されている。しかし、現実には本来のねらいとした戦争を防止、制限するほどの効果をもつ軍縮は実現したことがない。軍備の規制で19世紀に発展したのは、むしろ戦争を否定するのではなく人道的な観点から戦い方や戦争の手段を制限する交戦法規(現代では国際人道法)であった。たとえば毒ガスの使用禁止(そこから軍縮へ発展した化学兵器の禁止)などが、この系統の考え方である。もう一つ、第二次世界大戦後、とくに核時代になって平和の維持は軍備の均衡(核抑止体制)によるのでむやみに軍縮するのは好ましくない、むしろ勢力均衡を安定させるための管理措置を考えるべきであるとの考えが、1950年代のアメリカで強まった。このような考え方は軍縮と区別する意味で「軍備管理arms control」とよばれたが、これは米ソの戦略兵器制限のように情勢の安定に役だつ措置であれば、軍備を縮小するか増強するかは問わない考え方である。現代では一般的に軍縮、あるいは軍縮問題という場合には、軍縮を目標としつつも、現実の多様な考え方にたつ措置を包括的にさすものとして使われることが多い。軍縮を考えるうえで、本来の軍縮思想と現実のさまざまな関連措置の間に違いがあることを理解することは重要である。

[納家政嗣]

第一次世界大戦までの軍縮

19世紀のヨーロッパでは列強の間で武装兵力削減や軍備制限の提案が行われた。ナポレオン戦争後のウィーン体制の下での1816年帝政ロシアからイギリスへの提案、パリ七月革命後のフランスからヨーロッパ各国への提案(1831)、1863年以降のナポレオン3世による3回の提案、普仏戦争直前にイギリスがプロシアに対して行った提案(1870)などである。しかしこれらの提案はいずれも具体的な交渉の段階には進まなかった。この時期の成果としては、1814年にガン条約で戦争を終結していたイギリスとアメリカが、1817年4月28、29日の交換公文で取り決めたラッシュ・バゴット協定などがある。この協定は五大湖とシャンプレーン湖、モントリオール南方の米加国境における両国海軍の隻数、艦型、装備などを制限した局地的な取決めであった。

 1898年帝政ロシアの外相N・ムラビヨフは列国に回状を送って、国際平和会議を提案した。これに基づいて、1899年5月18日に第1回(26か国参加)、また1907年6月15日に第2回(44か国参加)のハーグ平和会議が開催された。しかし、この会議も目的としていた軍備制限や軍事費削減については、これが望ましい旨の決議を行うにとどまった。むしろ爆弾の空中からの投下や毒ガスの禁止など、軍縮とは異なる戦時国際法(交戦法規)の面での成果が目だった。

[納家政嗣]

戦間期の軍縮

第一次世界大戦後に設立された国際連盟は、その規約第8条で、加盟国は平和維持のために、その軍備を国の安全と国際義務の共同遂行に支障のない最低限度まで縮小することを規定した。この規約を第1編として含むベルサイユ条約など各講和条約は、敗戦国、とくにドイツの陸海空軍およびその装備の厳重な制限を規定していたが(ベルサイユ条約第159条以下)、この対独軍備制限がいずれ実施されるはずの規約第8条による全般的な軍縮事業の前提になっていたわけである。連盟理事会は、規約第9条(常設軍事委員会)に基づいて1920年5月19日に設置した常設軍事諮問委員会で審議を行い、その後1926年からは前年末に設置された軍縮会議準備委員会で各国の意見の取りまとめを続けた。準備委員会の討議が各国の留保条件つきながらいちおうの合意に達したところで、連盟理事会は、1931年1月24日軍縮会議の招集を決議し、同会議は翌1932年2月2日から、59か国の参加を得てジュネーブで開催された(ジュネーブ軍縮会議)。しかし、ヨーロッパの現状(いわゆるベルサイユ体制)打破を志向するドイツと、ドイツ再軍備の脅威をひときわ強く感じるフランスの対立が主たる障害となって、審議は難航を極めた。軍縮にいつでも付きまとう「軍縮が先か、安全保障が先か」の堂々巡りであった。1933年に入るとヒトラーが政権を掌握し、再軍備に乗り出したため、連盟による軍縮事業の前提が失われることとなり、軍縮会議は具体的な合意に至ることができないままに、1934年末以降はふたたび開かれなかった。

 国際連盟による全般的な軍縮は失敗したが、この時期にはいくつかの特定国間の取決めが成立した。一つは、1922年2月6日にアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアが調印したワシントン海軍軍備制限条約である。この条約では、五大海軍国の主力艦保有量の比率を、アメリカ5、イギリス5、日本3、フランス1.67、イタリア1.67とすることなどを決めた。アメリカ、イギリスは、第一次世界大戦後、アジア・太平洋の海軍国として台頭してきた日本の軍備増強に歯止めをかける必要を感じていたし、他方日本は、新興の海軍国として、大規模海軍の建設に乗り出してはみたものの、財政への圧迫、物資の不足などの困難を抱えており、不平等との不満はあったがとりあえずこの条約を受け入れた。財政難はいつでも軍縮をもたらす重要要因である。またこの条約は、同時に結ばれた数多くの条約、協定、議定書からなるいわゆる「ワシントン体制」の一部として成立したものであった。政治状況を離れて軍縮だけ独立に実現することは考えにくい。

 その後、ワシントン会議で合意できなかった巡洋艦、駆逐艦、潜水艦の補助艦艇制限につき話し合いが行われた。まず、アメリカ大統領の提案で、1927年6月からジュネーブで、アメリカ、イギリス、日本の三国会議が開催された(フランス、イタリアは参加拒否)。しかし、ここでは米英対立が解けず、合意に至らなかった。ついで1930年1月からロンドンで、今度はフランス、イタリアも参加して五国会議を開き、1930年4月22日、ロンドン海軍軍備制限条約に調印した。ただし、フランスとイタリアは話し合いがつかず条約に加わらなかった。この条約は、日本の補助艦艇保有量を、小型巡洋艦は米英の7割、潜水艦は均等、これらを条件として大型巡洋艦を米英の6割にすることなどを決めた。しかし、拡張主義的な政策に乗り出していた日本は早くも1934年12月に、ワシントン海軍軍備制限条約を1936年末をもって廃棄する旨を通告した。またロンドン海軍軍備制限条約も、同条約第23条に基づいて1935年に開催されたアメリカ、イギリス、日本の三国会議(ロンドン)が決裂したため、1936年末をもって失効した。この間に結ばれた英独海軍協定は、ベルサイユ条約を修正してドイツにイギリスの35%までの海軍力保有を公に認めた取決めで、軍縮条約ではなかった。こうして、1937年以降、無条約状態の下でふたたび主要国間の建艦競争が繰り広げられることになった。

[納家政嗣]

第二次世界大戦後の軍縮

国際連合憲章第26条は、「世界の人的及び経済的資源を軍備のために転用することを最も少くして国際の平和及び安全の確立及び維持を促進する目的で」安全保障理事会が「軍備規制」の方式を確立することを規定した。しかし、国連は発足と同時に、この軍縮を目ざす規定が想定していなかった核兵器の問題に取り組まねばならず、1946年に国連原子力委員会を設置した。ついで翌年に国連通常軍備委員会を設置し、これらの二つの場で原子力の国際管理、原子力(核)兵器の禁止、通常軍備の縮小などを審議した。しかし、1949年にソ連の原爆保有が明らかになったあとでは、核兵器と通常軍備を切り離して審議することが無意味になったので、1952年1月に先の両委員会を統合する軍縮委員会を設置、さらに1954年4月には大国間の話し合いを重視して同委員会の下に、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、カナダからなる五か国小委員会を設けた。ここで憲章第26条に沿う全般的な軍備縮小や包括的な軍縮のための段階的プログラムの作成などが活発に討議された。しかし合意に至らず、この種の軍縮交渉は1950年代なかばには尻すぼみになくなった。

 交渉の焦点は直接には軍縮を目ざさない、いわゆる核軍備に関連する部分的措置へとしだいに移った。米ソ双方の核軍備が増強されて大幅な軍縮の見通しがなくなり、同時に相手からの大規模な報復の可能性を考えて双方が容易に戦争に訴えられないという「核手詰まり」も生じ、その状況の安定化を考えなければならなくなったからである。交渉の議題は超大国米ソの関心に沿うものになり、それに応じて交渉機関も東西の同盟すなわち北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構(WTO)から同数の各5か国が出席する10か国軍縮委員会(1960年3月)となり、国連外に置かれた(ジュネーブ)。この交渉機関はその後非同盟諸国を加えるなど拡大改組を続け、1984年に現在の軍縮会議に改められ(1999年以降65か国)、現在に至っている。

[納家政嗣]

冷戦期の軍縮

第二次世界大戦後の最初の重要な軍縮関連の取決めは、キューバ・ミサイル危機(1962)の翌年に米英ソ3国が調印し、すべての国に開放した部分的核実験禁止条約(PTBT)である。この条約は、地下での実験を除く核兵器実験を禁止したものであるが、その条文以上に、米ソが核手詰まりを背景として険しい冷戦のなかに部分的に共存のルールをつくりだしたという政治的意義が重要であった。この条約をきっかけにして1970年代のいわゆるデタント(緊張緩和)期にかけて、多くの二国間、多国間の取決めが成立した。内容的にはおよそ以下のように分けることができる。第一に米ソが核抑止体制を補完し、核戦争の回避を意図したもので、対弾道ミサイル・システム制限条約(ABM制限条約、1972年調印)、第一次戦略兵器制限協定(SALT-Ⅰ、1972年調印)が代表的である。第二に核実験の制限や核兵器国の増加を防止する条約で、先のPTBTや核不拡散条約(NPT、1968年調印)である。第三に軍事利用のむずかしい領域や空間への核兵器の設置などを予防的に規制したもので、南極条約(1959年調印)、宇宙条約(1967年調印)、海底条約(1971年調印)、月協定(1979)などが次々につくられた。人間の居住する領域では1967年にラテンアメリカの核兵器禁止地域条約も調印された。いずれも米ソの核抑止体制を中心にそれを攪乱(かくらん)する要因を統制する意味あいの強い取決めで、二極構造下の情勢安定には貢献したが、軍縮としての効果は限られていた。これらの取決めは、その意味で米ソ体制の制度的枠組みと性格づけられることが多い。これに反発する諸国もあった。フランスや中国はジュネーブの軍縮委員会にも、重要な取決めにも参加しなかった。またこの体制の下での核軍縮の遅れに不満を抱く非同盟諸国は、国連全加盟国からなる国連軍縮特別総会の開催を要求した。この会議は1978年から3回開催されたが(1982、1988)、非同盟諸国と核兵器国の対立が険しく軍縮に対する国際世論の喚起にはなったものの具体的な成果はなかった。

[納家政嗣]

冷戦の終結と軍縮

次に軍縮交渉が進展をみせるようになったのは、1980年代後半以降、冷戦の終結期・冷戦後である。第一に核戦力の規制については、1987年12月、中距離核戦力(INF)全廃条約が調印された。1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任してペレストロイカを開始し、軍縮に積極的であったことが背景にあった。この条約は、ヨーロッパだけでなくアジアを含めて射程500~5500キロメートルの準中距離および中距離ミサイルを全廃するもので、米ソ合わせて約2500のミサイルを廃棄する戦後初めての軍縮条約であった。冷戦期のSALTを引き継ぐ交渉からは、1991年に戦略兵器削減条約(START-Ⅰ)が調印された。これも冷戦終結に伴い核軍備競争が無意味になったことを反映して軍縮条約となった。ただし条約調印後、ソ連が解体したためベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンに配備されていた戦略核戦力をロシアに引き上げ、これら3国は非核兵器国としてNPTに加盟するリスボン議定書に調印する手続きが必要となり、START-Ⅰが発効したのは1994年になった。この条約の下で、発効後7年間にミサイル数にしてアメリカは29%、ソ連は36%、弾頭数ではともに40%強を削減することになった。こうした軍縮機運の高まりのなかで、アメリカのG・H・W・ブッシュ大統領は1991年9月、国外の地上、海洋に配備する戦術核の大部分を一方的に撤去することを声明し、ゴルバチョフ大統領も呼応して戦術核のより徹底した削減を提案した。この間に1993年には、2003年までに弾頭数にしてSTART-Ⅰの削減からさらに半分程度(3000~3500発)に縮小するSTART-Ⅱ条約が調印されたが、冷戦後の情勢認識、とくにミサイル防衛をめぐる米ロの対立が大きくなり、発効しなかった。2001年に発足したアメリカのG・W・ブッシュ政権は対テロ戦争を進めたこともあり、軍縮には強い関心を示さなかった。ブッシュはミサイル防衛(MD)システム配備の障害になるABM制限条約を、2001年末一方的に破棄した。また2002年には、ロシアとの間で戦略攻撃力削減条約(SORT)に調印したが、これは軍縮の意味をほとんどもたなかった。こうしたブッシュ時代の軍縮の停滞をオバマ政権(2009~ )は打開しようとした。オバマは早々と「核なき世界」という目標を世界に示し、2010年4月に戦略核弾頭を1550発まで、1980年代ピーク時からすると80%強を削減する新START条約に調印した。この条約は2009年に期限満了、失効したSTART-Ⅰの後継条約であった。

 なおINF条約以後の軍縮機運の盛り上がりのなかで、ヨーロッパで通常戦力の軍縮条約ができたことは、第一の冷戦後の新しい動きである。1989年、それまでまったく成果のなかった中部ヨーロッパ相互兵力軍備削減交渉(MRFAまたはMBFR)が打ち切られ、新たに全ヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE、35か国)の枠組みの下でNATO、WTO加盟の23か国によるヨーロッパ通常戦力交渉が始まった。1990年に通常戦力を23%削減するヨーロッパ通常戦力条約(CFE)に合意、調印し、その直後にソ連が解体したため、内容を修正したうえ、新たな独立国を加えた30か国の間で1992年に発効した。ただその後、旧ワルシャワ条約機構加盟国が続々NATOに加盟するなどの情勢変化があり、条約は1999年CFE適合条約に修正のうえ署名されたが、いくつかの地域的な力の不均衡でロシアとNATOが対立し、CFE適合条約は発効していない。

 第二に核実験禁止、核不拡散問題では、冷戦後いっそう深刻な難題が生じた。1991年の湾岸戦争のあとの査察で、イラクが核兵器のみならず化学・生物兵器の開発に乗り出していたことが発覚した。同じ時期に北朝鮮の核開発疑惑がもちあがり、リビア、イラン、シリア……と続くことが懸念されたのである。問題は核拡散に限られず、いまや大量破壊兵器(WMD)の拡散に拡大した。懸念国も、NPTができたときに懸念された技術的能力も資金もある先進国から、安全保障に問題を抱えたやや特異な途上国に移り、しかもNPT加盟国として平和利用の権利を掲げるので、制度のなかでは対応しにくい諸国であった。まず1993年には、大量破壊兵器のうち生物兵器禁止条約(1972)ができた後の残る課題となっていた化学兵器禁止条約の合意にこぎ着けた。この条約は、化学兵器の全面廃棄を定め、その実行確保のために抜き打ち査察や制裁措置も規定する。廃棄に多額の資金が必要であり全廃には時間がかかるが、交戦法規から発展した重要な軍縮条約である。核拡散については、1995年にNPTの運用検討・延長会議において、NPTが無期限延長された。このときに同時に採択された文書に盛られた包括的核実験禁止条約(CTBT)は、翌1996年、ジュネーブ軍縮会議ではインドの反対でコンセンサスが得られなかったが、同年の国連総会決議として採択され、署名のために開放された。核開発の能力ありとみられるインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮、イランなどを含む44か国すべての批准を発効条件としているため、発効の目途はたっていない。

 第三に一定の地域に非核地帯をつくる動きは冷戦後活発化した。1985年に採択された南太平洋非核地帯条約が弾みとなって、アフリカ(1995年採択)、東南アジア(1995年調印)、中央アジア(2006年調印)に非核地帯条約が実現した。これは冷戦期のように単に東西の核戦争に巻き込まれたくないという動機から、核実験の禁止、放射性廃棄物の投棄の禁止、あるいは放射性物質による汚染の除去など、動機が環境問題と重なる形で軍縮問題を超える広がりをもつ動きになったことを示している。

 最後に冷戦終結後の軍縮の特徴として、人道レジーム(体制)形成とでもいうべき動きが広がっていることを付け加える必要がある。これは本来ジュネーブ4条約(国際人道法)の系譜から発展したもので、1980年に採択された特定通常兵器使用禁止条約(CCW)の議定書(地雷、ブービートラップ、焼夷弾(しょういだん)などの使用制限・禁止)、あるいは地雷にかかわる議定書Ⅱを内戦や探知不能地雷に適用できるようにした改正議定書(1996)がある。しかし冷戦後の新たな条約形成には違いがみられる。特徴は第一に国家間の安全保障よりも個々の人間の安全を重視し、人道的な観点から犠牲者の保護や救済を考えていること、第二に従来の交戦法規あるいは国際人道法と違い使用の制限や禁止だけではなく、生産、貯蔵、使用を全面禁止すること、最後にフォーマルな国家間の交渉機関ではなく、有志国が先導し非国家主体(NGO)とも連携して早急に条約の起草、発効にもってゆくことである。この種の条約として1997年に調印された対人地雷禁止条約、2008年調印のクラスター爆弾禁止条約がある。有志国による条約は、主要な生産国、使用国が加盟しないといった弱点もあるが、冷戦後の新しい軍縮の傾向を示している。兵器の種類としては異なるが、冷戦後の内戦多発状況で同じような人道的関心から規制を求められているのが小型武器である。ただしこの問題については、条約や拘束力のある制度は存在しない。日本などの有志国やNGOが国際的な啓蒙活動を展開し、国連会議が策定した「行動計画」の実行を強化してゆくという段階にある。小型兵器の非合法流入を追跡する手法の開発、非合法取引の仲介規制の国際協力、内戦後の平和構築における武器の回収・廃棄の強化は、こうした活動のなかでももっとも重視されているものである。

 このように第二次大戦後は、軍縮やそれに関連した取決めの数の多さからみて、長い国際政治の歴史のなかでも特異な時期である。一つには核時代の不安がある。工業化戦争が2回の世界大戦でピークに達し、そのうえ核兵器が開発されたことから、事実上大規模戦争はむずかしくなった。しかしそれは核抑止に支えられたきわめて不安定なものであり、したがって核抑止に依存しつつ絶えず条約その他の取決めによってお互いに意図を確認しあわなければならなかった。多数の条約はそうした不安な時代の反映であった。第二に戦後、武力行使は国連憲章において一般的に禁止された。しかし植民地が続々と独立するなかで、各国各地域には依然として武力によって対応せざるをえない情勢が多くみられたが、冷戦下ではそうした不安定地域の軍縮は重視されなかった。ただ可能な地域から徐々に、武力によらずに紛争を処理する信頼醸成や対話の枠組みを広げる努力がみられるようになり、それが軍縮への高い関心の一つの背景となった。最後に、戦後植民地から独立した諸国のなかには独立後、経済的に疲弊し政治的にも不安定化した国家が含まれていた。こうした諸国のなかから冷戦終結前後に内戦が繰り返され社会・国家の再建がむずかしくなる国家が現れた。こういう状況では、従来の国家安全保障とは異なる人道的観点から、非人道的な性格の強い特定の兵器の禁止、あるいは小型武器の「ミクロ軍縮」という新しい考え方が導入された。軍縮は本来戦争防止を目的とする。冷戦終結によって情勢は激変し軍縮に関連する措置は著しく多様化したが、各国、各地域の情勢に応じて柔軟に多様な措置を工夫することは不可欠であるとはいえ、軍縮という目標を見失わないことが逆に重要となった。

[納家政嗣]

『前田寿著『軍縮交渉史』(1968・東京大学出版会)』『三枝茂智著『国際軍備縮少問題』復刻版(1975・原書房)』『前田寿著『軍縮問題』(武者小路公秀・蝋山道雄編『国際学』所収・1976・東京大学出版会)』『藤田久一・浅田正彦編『軍縮条約・資料集』(第2版1997、第3版2009・有信堂高文社)』『黒沢満編著『軍縮入門』新版(2005・東信堂)』『浅田正彦・戸崎洋史編『核軍縮不拡散の法と政治』(2008・信山社出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「軍縮」の意味・わかりやすい解説

軍縮 (ぐんしゅく)
disarmament

日本語では軍備縮小の略。軍備の削減,とくに大幅な削減を意味し,人によって究極的には主要な兵器や軍備の廃絶を含めて考えることも少なくない。軍縮に相当する〈軍備削減reduction of armaments〉という観念が広く国際的に正当性を認められたのは,国際連盟規約8条においてであった。これに対して国際連合憲章では〈軍備規制regulation of armaments〉という概念に重点がおかれている(11条,26条)。こうした違いは,第1次大戦の場合には,それに先立つ軍拡競争が戦争の大きな原因になったという認識が,大戦終結・国際連盟発足当時に広く受けいれられていたのに対し,第2次大戦の場合には,ファシズム諸国に対抗して民主主義諸国が十分に軍備を増強しなかったことが戦争を誘発した,という考えが支配的であったことを反映している。したがって〈軍備規制〉という観念は,一方で軍備競争防止のための規制を念頭におきながら,他方で軍備が少なすぎることのないような規制をも含意している。

これに一見類似した観念として,1960年代からアメリカを中心に広く用いられるようになった〈軍備管理arms control〉がある。国連憲章でいう〈軍備規制〉は,五大国とくに米ソの基本的一致が続くという前提に立ち,そうした協調関係にある米ソが軍事的に強力であることが世界平和の維持に必要だという考えに基づいていた。これに対し〈軍備管理〉は米ソの基本的対立を前提にし,ただ軍備の部分的管理という点で両国は利益を共有しうるはずだという考えに立脚している。こうした差異の反面で,この二つの観念には共通点がある。それは,軍縮は不可能,不必要または不適当であるという判断に立脚し,また大国は世界の憲兵として秩序維持に当たる資格をもつと考える点である。したがって軍備管理の主眼は軍備削減にはなく,軍備の開発,実験,生産,配備,移動,使用などについて,国際的に合意された一定の規制を加えることにある。それゆえこれは,相互に合意された軍備増強を排除しない。例えば戦略核兵器に関する1974年11月の米ソの〈ウラジオストク協約〉は,米ソの戦略ミサイルの現保有数を上回る数を両国の保有の上限として認めあった。これは管理された軍拡を意図したもので,結果的には軍拡を正当化する機能をもち,軍縮とはいえない。

 第2次大戦後,〈軍縮交渉〉と俗称される交渉が国連その他の場で米ソを軸に長々と行われたが,そこで東西双方から提案された軍備削減は実現されず,実現された数少ない例は軍備管理に属するものであった。そこには,(1)63年の米ソ間の合意をはじめとする一連のホットライン設置など,誤算による偶発戦争の防止を意図するもの,(2)59年署名の南極条約,67年の宇宙天体条約,71年の海底核兵器設置禁止条約などのように軍事的に未使用,あるいは当分不必要である局面に関するもの,また63年の部分的核兵器実験停止条約のように軍事的に不必要となった局面に関するもの,(3)68年の核不拡散条約のように五大国の核保有という既成事実を固定化する機能をもつもの,その反面で67年のラテン・アメリカ核兵器禁止条約のように核非武装という現状の長期化を狙うもの,などが含まれる。これらは,それぞれに限定された意義をもつものだったが,いずれも軍備削減ではない点で共通していた。それどころか,こうした軍備管理の交渉や協定と並行して,軍備は増強の一途をたどってきたのだった。では,当時なぜ軍縮は実現しなかったのか。

その一つの理由は,軍縮交渉が次のような発想に立脚していたことにある。それは,軍縮は合意によって実現することが必要であり,そのためには交渉が必要であり,交渉が成功するためには〈均衡のとれた軍縮〉であることが必要だという考えである。だが実際の軍縮交渉では,何が〈均衡〉かについて合意が成立せず,こうした交渉がかえって対立を深めることが少なくなかった。例えば,米ソが兵員を仮に300万という同数にすることは,ソ連からすれば〈不均衡〉である。なぜなら対立関係にある国との国境は,ソ連の方がはるかに長いからだ。量的な均等こそ質的な不均等を意味するというわけである。いわんや,核兵器で優位に立つアメリカと,通常兵力で優位に立つソ連との〈均衡〉は定めようがない。このように〈均衡〉を客観的に測定することは本来不可能である。したがって軍縮交渉では,〈均衡〉という名のもとに,自国の安全を読み込んで,相手への優位を確保するような軍縮提案が相互に行われた。もし軍縮によって相手への優位を確立できれば,軍拡による相手への優位と類似の効果をあげることができるからだ。こうして〈軍縮〉交渉という名の軍拡競争が続くことになった。

 軍縮交渉がこうした逆効果に終わったのは,ここに見られる軍縮へのアプローチが,基本的に相手国への不信に立脚し,相手国が軍縮協定に違反して抜けがけ的に軍拡を行った場合にも自国が決して不利益をこうむらないよう,今から相手国への確実な優位を確保しようとする行動が,双方によってとられることに起因する。そこで,こうした相互不信に基づく軍拡の悪循環を克服する道は何かが議論されることになった。

 通例とられたのは,〈まず相手国が口先でなく行動で軍縮への誠意を示せ〉というアプローチである。しかしこれを相互に要求していたのでは悪循環は断ち切れない。そこで逆に,自国の安全を基本的に脅かさない限度でまず自国の側で部分的軍縮措置を一方的にとり,それによって相手国の軍縮を妨げている要因の中でこちら側に起因するものを緩和・除去して,相手国の部分的軍縮措置を誘い出し,それに見合ってこちら側が次の部分的軍縮措置をとる--そういう形で,軍縮への循環過程を生み出すというアプローチが主張された。これを理論化したのはアメリカの心理学者オズグッドCharles E.Osgoodの提唱した〈緊張緩和への段階的・相互的イニシアティブGraduated and Reciprocated Initiatives in Tension-reduction(GRIT)〉である。これは一見理念的にすぎるように見えるが,実は部分的核実験停止条約や米ソ間ホットライン設置などの軍備管理協定の成立も,GRITの要素なしには不可能だった。より一般的にいえば,ある程度にせよ国際的緊張緩和が実現した過程は,GRITの要因なしには成り立ちにくかったのである。それが最も劇的に示されたのは,ゴルバチョフが,1985年以降一方的に核実験を停止して信頼醸成の口火を切り,ついで87年に,東西緊張再激化の主因だった中距離ミサイルの撤去・廃棄提案に踏み切るという形で示した〈軍縮への一方的措置〉という政治的決断だった。これが米ソ間の不信を弱め,信頼を醸成するうえで,大きな促進要因となったことは疑いない。

 ただ冷戦期に,こうしたGRIT的な措置が議論されたときには,国家間関係での相互不信を減らして軍拡競争をやめ,軍備管理と若干の軍備削減を実現すること以上は想定していなかった。つまり,対立する体制の国家間の共存が主眼だった。ところが,続いてゴルバチョフは戦略核兵器の削減提案にまで踏み切ったのだが,それは,もはや国家間の不信緩和にとどまらず,ソ連の国内体制そのものの変革つまり民主化を断行するという決断があって,はじめて可能になった。つまり,冷戦終結の過程で明らかになったことは,体制の対決があるかぎり軍備管理以上の軍縮は難しく,本格的な軍縮には,民主的体制の共有が必要だったということである。これは,冷戦期の軍縮論や軍備管理交渉の根本前提にまったく新しい視点を加えた,画期的な変化だった。そしてソ連の民主化がゴルバチョフによる上からの民主化の枠をこえて,ソ連圏での下からの民主化が進むにつれて,91年調印の戦略核兵器削減条約START Iから93年調印の同条約IIへの核兵器の段階的廃棄の進行に見られるように,軍縮の基盤は一層強まったといってよい。

 だが政治的民主主義体制のもとであっても,なお軍縮を妨げる二つの要因があることは,アメリカの例がよく示している。

その一つは,国際関係がどうかとは独立に軍拡や兵器開発を利益として推進する国内勢力が,外交・軍事政策に大きな影響力をもつような政治・経済構造である。アメリカその他の〈軍産複合体〉がそれであり,旧ソ連のように国家官僚機構にくり込まれている場合には〈軍産官複合体〉の形をとった。この集団は,主観的には愛国心や,時には世界平和への希求を動機としていることもあろうが,客観的には,軍拡や兵器開発によって経済的利益を得るような構造を支えている。軍事費が〈財政負担〉として国民経済の重荷になっているときにも,この集団は受益者の立場に立つ。したがって軍縮を促進・実現するためには,こうした構造を変えなければならず,それが軍需産業の平和産業への〈経済転換economic conversion〉である。冷戦終結後,軍事予算の大幅削減もあり,軍産複合体の影響力は相対的には弱まったが,それだけに,高価なハイテク新兵器開発や兵器輸出を売り物にする,生き残りのための反撃もはげしい。とくに,軍事的な研究・開発military R&Dは,10年,20年先を見越して進められるため,いったん開発投資がされると,それを政府が中断することには困難が生じがちだから,こうした技術開発上の既得権益を民主的に制御する市民的な勢力が,政治的にどれほど強力であるかが重要になる。

軍縮を妨げるもう一つの構造的要因は,大国や先進国が小国や後進国を支配する,非対称的な関係での大国主義,覇権主義の力学である。これは歴史的にさまざまの形で現れてきたが,冷戦終結後の特徴を端的に示すのは,アメリカを頂点とする軍事的一極構造を永続させるために,アメリカのヘゲモニーへの挑戦者出現の可能性を事前に封じ込めようとするアメリカの非対称的な軍事政策である。それは,一方で,核不拡散体制の延長(1995)や包括的核実験禁止体制の確立(1996)によって,他の国の核開発を押え込むと同時に,他方で,アメリカが確実な比較優位に立つ核兵器の分野で,臨界前核実験を継続(1997年7月以降)したりして優越の保持をはかる。核拡散や核テロリズムの脅威を力説することで,アメリカの核優位を正当化するのだが,こうしたヘゲモニー維持が追求されるかぎり,軍備強化が続く。ロシアも臨界前核実験を行って核大国の保持を目指している。この構造の変革には,軍産複合体の解体とは異なった難しさがある。つまり大国や先進国の一般国民は,軍産複合体が縮小されれば,平和の配当や減税などの受益者となるが,対外的大国主義の場合には,その受益者という性格をもちやすい。その意味で,ここでは大国や先進国の市民が,ナショナリズムや国境の枠をこえ,途上国や小国の市民と連携するための自己変革を行うことが必要となる。こうした先進国市民の意識変革を示す一例は,冷戦期のように核戦争の危険に自分がさらされるから核軍縮を支持するということではなく,冷戦後,途上国の市民・女性・児童などの心身を破壊する小火器の規制,とくに対人地雷の廃絶への強い関心が,国境をこえた市民運動として結晶し,97年の対人地雷全廃条約のような成果をあげるようになったという事実である。

 長い間,軍縮は主として,対称的な国家間関係のレベルで議論されてきたが,冷戦の終結は,政治体制の民主化が軍縮にとっていかに重要な条件であるかを示した。しかし民主主義のもとでも軍産複合体や軍事研究開発体制が存続するならば,国家間だけで兵器の量的削減の協定を結んでも,それは軍備の質的強化をもたらす危険が残る。また大国主義的な国際秩序の構造を変えないまま,例えば近代兵器の途上国への拡散や輸出を規制しても,それは南北格差を固定化するだけでなく,早晩途上国の自前の兵器生産を触発し,世界の軍縮を一層困難にするおそれがある。軍縮は,こうした多次元的な側面を連動させつつ進めることが必要なのである。
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第1次世界大戦を契機としてソ連邦の誕生,アメリカの台頭が見られ,そのアメリカの主張する国際連盟が成立した。このような条件のもとで連盟主催のジュネーブ軍縮会議が開催されたが(1932),戦間期にはなんら成果を生み出すことはできなかった。他方,海軍に関してはアメリカが主導したワシントン軍縮会議(〈ワシントン体制〉の項参照)で主要艦に関する米英日仏伊5ヵ国による海軍軍備制限条約(1922),また補助艦艇については1930年ロンドン軍縮会議で米英日の海軍軍備制限条約が実現したが,第2次世界大戦を防止するほどの効果をあげるには至らなかった。

 第2次大戦後の軍縮交渉史には,おおまかに見ると,交渉が特に活発化したり,具体的な成果が得られた三つの時期があったことがわかる。1960年代の多国間条約の時代,70年代のアメリカ・ソ連の2国間,あるいは東西ヨーロッパ間の交渉,そして最後に80年代後半から90年代の冷戦終結期で,この時期にはそれまでの核兵器,その他の大量破壊兵器,通常戦力などほとんどすべての分野で実質的な軍縮の取決めが実現した。

第2次大戦後の軍縮交渉は,ナチス・ドイツや日本に軍事的に対抗しなかったことが大戦の一つの原因となったという反省から,国連は国際連盟ほどには軍縮を重視しておらず,他方,大戦終結の直前にアメリカが原爆という前代未聞の兵器を完成したため,当面の緊急課題として核兵器の規制・廃棄問題から始まった。その後交渉の議題は広がり,1950年代半ばまでに原子力の国際管理と原爆の禁止,通常軍備の縮小,全般的軍備の縮小などが主要議題となった。しかし冷戦が険しさを増すなかで,他方で核兵器の開発,軍備の増強を続けながらの交渉は政治宣伝戦の色彩が濃く,合意の可能性はほとんどなかった。ただ厳しい対立にもかかわらず交渉は途切れることなく続けられた。これは著しく不安感の強い核時代を反映する現象であり,結果的にそれが相互理解や戦争防止に役立ったことも否定できない。米ソは50年代半ばまでに相当量の原爆を保有し,運搬手段の爆撃機を配備したうえに,54-55年には水爆を完成した。さらに50年代末には米ソの主都間をわずか30分で飛翔する弾道ミサイルの開発,実戦配備にしのぎを削った。このような軍事技術の急速な発展を背景として米ソがともに容易なことでは戦争に訴えられないという〈核手詰まり〉状況が現れてきた。このような核手詰まり状況を最も劇的に示したのが1962年のキューバ・ミサイル危機であった。核戦争の瀬戸際を経験した米ソは,一層情勢の安定化を求めるようになった。そこで米ソはこの事件以前にすでに詳細に話し合い,実質的な合意に達していた核実験禁止問題をとらえて秘密折衝に入り,63年8月5日,探知の難しい地下実験を除く核実験の禁止を規定した部分的核実験停止条約(PTBT)に調印した。この条約の意義は,その内容以上に米ソが冷戦下でも共通利益を見いだし合意できること,また相互の不戦を暗黙に約束した点にあった。

 PTBTは米ソの限定的協調時代の幕開けを告げたが,これを反映して,表に見られるように1970年代初期にかけて宇宙天体条約,核不拡散条約(NPT),海底核兵器設置禁止条約,生物・毒素兵器禁止条約(〈生物兵器〉の項参照)など幾つかの多国間条約が実現した。そのうち最も重要なのはPTBTに続いて核兵器国増加防止を直接の狙いとしたNPTであった。核兵器を保有する国家が次々と現れるようでは米ソの核抑止体制も安定のしようがなかったからである。米ソ主導の体制を嫌うフランスや中国はPTBT,NPTのいずれにも加盟しなかった。このような多国間の枠組みを基盤とし,また70年代初期のデタントと呼ばれた全般的な緊張緩和を背景にして,米ソは核抑止体制を安定させるうえで不要であり危険でもある戦略戦力を調整する2国間交渉(戦略兵器制限交渉)を70年代を通じて続けた。そこから生まれたのが,戦略的攻撃兵器制限暫定協定(SALT Ⅰ)と弾道ミサイルをミサイルで迎撃するシステムの配備を制限したABM条約であり,さらに戦略的攻撃兵器制限条約(SALT Ⅱ,未発効)であった。また米ソ交渉と並行してヨーロッパでは1973年以降,ヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE)とNATO,ワルシャワ条約機構(WTO)の関係国による中部欧州兵力削減交渉(MBFR)が始まった。前者は75年にその後の東西欧州関係の主要な枠組みとなった〈ヘルシンキ宣言〉に合意した。

軍縮交渉が再び動きだしたのは1985年にソ連共産党書記長にM.ゴルバチョフが就任し,国内経済の改革(ペレストロイカ)を開始し,西側との協調路線をとってからであった。最初の成果が,米ソのINF全廃条約(1987)であり,その後矢継ぎ早に米ソが従来のSALTにかえて実質的な核戦力の削減を目指した戦略的攻撃兵器削減条約(START Ⅰ,1991年),およびソ連解体後のロシアとアメリカによる,戦略核戦力をピーク時のおよそ1/3に削減するSTART Ⅱ条約(1993年,未発効)が調印された。95年に有効期限に達した核不拡散条約(NPT)は,同年の再検討・延長会議で無期限延長され,恒久条約となった。またNPTの無期限延長に際して〈核不拡散・軍縮の原則と目標〉文書も採択されたが,同文書で求められた地下実験も含めすべての核爆発実験を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)は翌96年9月,国連総会において採択された(未発効)。核不拡散の地域的措置としての非核地帯条約も1967年のラテン・アメリカ核兵器禁止(トラテロルコ)条約以来途切れていたが,85年の南太平洋非核地帯(ラロトンガ)条約,さらに冷戦後の95年のアフリカ非核地帯(ペリンダバ)条約,東南アジア非核地帯条約により南半球はほぼ非核地帯に覆われることになった。核不拡散効果とともに核兵器国のこれらの非核化された領域への核使用を禁止する議定書に対する調印,批准が進めば,核兵器の不使用効果も強化される。

 また先の生物・毒素兵器禁止条約ができて以来,化学兵器禁止問題が残されていたが,ここでも新たな展開が見られた。きっかけになったのは,イラン・イラク戦争で化学兵器が使用されたこと,さらに1991年の湾岸戦争後の査察でイラクが化学兵器を生産していることが判明し,〈貧者の核兵器〉とされる化学兵器の拡散が冷戦後の脅威として懸念されるようになったことであった。92年にジュネーブの軍縮会議で化学兵器禁止条約が採択され,翌年1月パリで署名のために会合,97年4月29日,65ヵ国の批准を得て発効した。

冷戦終結過程をこえる新しい秩序と軍縮の構想が求められるなかで,留意すべき冷戦後の二つの新しい動向を指摘しておく。

 一つは,軍縮をめぐる関心が,核兵器,その他の大量破壊兵器,弾道ミサイル,さらに通常兵器にまで及ぶ不拡散体制の構築に移りつつあることである。核兵器については核供給国グループ(NSG),生物兵器や化学兵器については〈オーストラリア・グループ〉が輸出規制体制を強化している。弾道ミサイルについては主要先進国28ヵ国が1987年にミサイル技術管理体制(MTCR)を設けることに合意した。これは当初,射程300km,搭載能力500kg以上の弾道ミサイル,その製造資器材・技術の輸出の管理を目的としていたが,93年以降は核・化学・生物兵器などすべての弾道ミサイルの輸出を管理する体制に強化された。通常兵器および関連汎用品・技術の輸出に関しては,ロシアを含む主要先進国28ヵ国が95年12月,統制品目について情報交換を行い,協調して輸出管理を実施するワッセナー協約に調印している。通常戦力に関しては,規制まではいかないが,国連総会が1991年12月9日,創設を決議した軍備登録制度を付け加えておこう。

 もう一つは,軍縮交渉に従来のように軍事大国の戦略的考慮や直接の関係国の安全保障上の利害よりも,人道的考慮を優先して,とりあえずは賛同する諸国や非政府の関係団体(NGO)だけで条約をつくるという方式が見られるようになったことである。たとえば1997年9月に条約として採択された対人地雷全面禁止条約はこの例である。条約が署名を待つばかりとなり,加えてこれを推進したNGOがノーベル平和賞を受賞すると,ロシアは署名に方針を転換し,日本も署名の方向へ態度を変えた。この種の条約はいったん成立すると条約による規制に消極的な国家に対する強い道義的圧力となり,軍事大国にとっても無視するのは難しくなる。このような人道的配慮を優先した軍縮条約作成の方式は,現実の安全保障問題を考えると必ずしも好ましいとばかりはいえない面もあるが,今後も勢いを増す可能性のある方式であり,軍縮交渉をどのように再構築していくかという問いをあらためてつきつける新しい挑戦といえる。
核戦略
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知恵蔵 「軍縮」の解説

軍縮

軍備縮小の略。軍備の削減、特に大幅な削減の意。主要兵器や軍備の廃絶を含めることもある。第2次大戦後、米ソを軸に軍縮交渉と称する会談が続いたが、それと並行して軍備は増強を続け、核軍備の削減は、戦域核が1987年の中距離核戦力条約、戦略核が91年以降の戦略兵器削減交渉で初めて実現。前者は欧州で、後者は世界の、核戦争の危機を減らした。ただしそれ以後も、核兵器削減は遅く、不十分、不安定。軍縮を妨げる要因は、(1)相手の体制に対する不信感に立脚し、相手が抜けがけ的に軍拡を行っても自国が不利益にならないよう確実に優位を確保しようとする行動、(2)軍拡を利益とする軍産複合体の活動、(3)小国や後発国が将来軍備を拡大する可能性に対し、大国や先進国が軍事的優位の維持を図る新技術開発や量的な軍備増強、(4)その半面としての兵器拡散、など。そのため軍縮実現には、まず自国で部分的な軍備削減を実施し、相手の軍縮を妨げている要因のうち自国に起因する部分を取り除き、相手の部分的な削減を誘い出し、それに見合った次の削減措置をとるというアプローチが重要。ソ連のゴルバチョフが、85年、一方的に核実験を停止、87年、中距離核戦力の廃棄を提案し、中距離核戦力条約を調印したのは、このアプローチの好例。さらにロシアの民主化と共に、体制の対立が取り除かれて、90年代前半に米ロが戦略核兵器削減を進める基盤となった。ロシアの経済的困難も軍縮の要因。米国では、90年代、軍事費を削減し、軍産複合体の影響は相対的に弱まったが、ハイテク兵器などを売り物にする反撃も激しく、ブッシュ政権は再度軍拡に転じた。米は、軍事一極支配の永続のため、核不拡散政策やミサイル防衛構想の推進など、他国の核やハイテク核開発を抑え込み、自国優越の維持を図っており、このような非対称な関係でのヘゲモニーの維持が、軍縮を妨げる一因となっている。

(坂本義和 東京大学名誉教授 / 中村研一 北海道大学教授 / 2007年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「軍縮」の意味・わかりやすい解説

軍縮
ぐんしゅく
disarmament

各種の兵器・装備,兵員,軍事基地など,総和としての軍備の縮小または削減や全廃を意味する。軍備を規制,制限,削減するなど管理することによって,軍備が使用される可能性を減らすために行われる軍備管理と同義に使われることがあるが,概念上は第一義的に軍備をなくすことを目指す軍縮と,安定性を目指す軍備管理は区別される。 20世紀において,軍縮は国際連盟,国際連合,その他の国際会議で検討されてきたが,1922年のワシントン海軍軍備制限条約,30年のロンドン海軍軍備制限条約を例外としてほとんど成功しなかった。しかし 1980年代後半に始る東西の緊張緩和,冷戦構造の崩壊を背景に中距離核戦力全廃条約,欧州通常戦力削減条約 CFEなどが成立し,ある一定の軍備の撤廃,削減が実現している。

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世界大百科事典(旧版)内の軍縮の言及

【ジュネーブ軍縮委員会】より

…第2次世界大戦後,軍縮交渉は国連の場でなされたが,この問題が米ソのヘゲモニー確立の好材料と化したため,国連の機構外に東西交渉の場を設けようという動きが生じ,1958年9月,米英仏ソの四大国の合意により,東西両陣営それぞれ5ヵ国(アメリカ,フランス,イギリス,カナダ,イタリア,ソ連,ポーランド,チェコスロバキア,ルーマニア,ブルガリア)からなる〈10ヵ国軍縮委員会〉が発足し,60年3月から,ジュネーブにおいて審議を開始した。しかし,U2型機事件がおこり,同年6月同委員会は決裂した。…

※「軍縮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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