パキスタン(読み)ぱきすたん(英語表記)Pakistan

翻訳|Pakistan

精選版 日本国語大辞典 「パキスタン」の意味・読み・例文・類語

パキスタン

  1. ( Pakistan ) インド亜大陸北西部にある共和国。正式名パキスタン‐イスラム共和国。アラビア海に臨み、インダス川の流域とその北方の山岳地帯から成る。住民の大多数がイスラム教徒。人種構成は複雑で言語も多種にわたるが、ウルドゥー語が国語、英語も公用語とされる。一九四七年インド独立に際してインドから分離し、五六年独立。インドをはさみ東パキスタンと西パキスタンに分かれていたが、七一年、東パキスタンがバングラデシュ人民共和国として独立した。小麦・綿花を産する。首都イスラマバード

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パキスタン」の意味・わかりやすい解説

パキスタン
ぱきすたん
Pakistan

インド亜大陸北西部、ほぼインダス川流域の乾燥地域を占める国。正式名称はパキスタン・イスラム共和国Islami Jumhuriya Pakistan。英語ではIslamic Republic of Pakistan。西はイラン、北西はアフガニスタン、北東は中国、東はインドと接し、南はアラビア海に面する。面積79万6095平方キロメートル、人口1億3235万2279(1998年センサス)、1億6671万5500(2009推計)。首都はイスラマバード。パキスタンとはウルドゥー語で「清浄なる国」を意味する。国旗は、大きな緑地に小さな白地を加えた二色旗で、緑地の部分は建国運動を推進した旧インド・ムスリム連盟の党旗に由来し、新月(三日月)と星とを白く染め抜く。イスラム教徒にとって、緑は神の恵みを、新月と星は神聖なシンボルを表す。国旗、国名ともに国教のイスラム教を象徴し、同国を「インダス川と砂漠の清浄なるイスラム国家」と性格づけている。

[応地利明]

自然・地誌

パキスタンという国名は、一説によると、建国運動の過程のなかで将来の主要領域となるべき地方名を組み合わせてつくりだされた造語で、Pはパンジャーブ州、Aはノース・ウェスト・フロンティア(北西辺境)州(アフガン)、Kはカシミール、Sはシンド州の頭文字をとったもので、TANはバルーチスターン州の語尾にあたるという。これらの諸地方は、カシミールを除いて現在のパキスタンを構成する行政州であると同時に、ほぼ地形区分と対応している。パキスタンの地形は、北および西を取り巻く第三紀の新期造山帯に属する山地部と、インダス河谷の沖積平野部とに大別される。さらに山地部は北部山地と西部山地とに、また沖積平野部はインダス川の中流域平野と下流域平野とに細分される。

 北部山地は北西から南東へと走る褶曲(しゅうきょく)山脈の列からなる。もっとも外側の中国との国境沿いに走るのが世界第2位の高峰K2峰(8611メートル)を主峰とするカラコルム山脈で、8000メートル級の高峰4座を擁している。同山脈の諸山群の間にはビアフォ氷河(全長68キロメートル)などの大氷河があり、世界で最大規模の山岳氷河地帯をなす。同山脈の南を走るのが大ヒマラヤ山脈の一角をなすパンジャーブ・ヒマラヤ山脈で、その北西端にナンガ・パルバト山(8125メートル)がそびえるが、標高6000メートル級の山々が多く、カラコルム山脈に比べて高度は低い。さらにその南には、小ヒマラヤ山脈にあたる高度3000~4000メートル級のピル・パンジャル山脈、そして高度1000メートルほどのシワリク丘陵へと高度を低めつつインダス川中流域平原へと移行していく。北部山地はインド亜大陸の北辺障壁の一環であるが、古来、中国に通じる交通路がここを通過していた。ミンタカ峠越えはその代表的なルートであったが、1978年には同峠東方のクンジェラブ峠を通るカラコルム・ハイウェーが開通した。独立前のイギリス領時代には、西端部を除いて、北部山地の大部分はジャム・カシミール藩王国に属していた。1947年の独立と同時にその領有をめぐって印パ両国間でカシミール紛争が勃発(ぼっぱつ)した。その結果、現在は1949年の停戦ラインに従って、北西の8.4万平方キロメートルはパキスタン、南東の13.8万平方キロメートルはインドの管理下に置かれている。パキスタンは、同管理区域をアザド(自由)・カシミールとよんでいる。しかし、この停戦ラインをめぐって両国の争いは絶えない。

 西部山地は、アフガニスタン国境に沿って南西走するヒンドゥー・クシ山脈とその支脈からなる。歴史上名高いハイバル峠(カイバー峠)以南では、同山地は高度を低下させ、東部に大きく張り出して三つの高原地帯を形成する。第一は同峠付近から広がるペシャワル谷とポトワル高原であり、前者は北西辺境州の中心部にあたる。またそこは、歴史上インド亜大陸と西方世界とを結ぶ門戸の役割を果たしてきた。たとえば、紀元前1500年ごろのアーリア人、前6世紀のダレイオス大王、前4世紀のアレクサンドロス大王をはじめ、西方からの諸勢力はここを経てインド亜大陸に侵入した。また仏教とギリシア彫刻との結合とされるガンダーラ仏は、やはり西から進出してきたクシャン朝時代(紀元後1世紀末ごろ)にここで成立した。第二の高原は、その南に位置する西のトバ・カカル山脈と東のスライマン山脈に囲まれたロラライ高原であり、また第三はキルタル山脈以西に広がるマクラーン山脈と高原である。バルーチスターン州はこの二つの山地と高原地帯を包括する。ここもボーラン峠を経てアフガニスタン南部またイランへと通じる交通上の要地である。

 以上の新期造山帯とデカン高原との間の大規模な地向斜帯を埋積したのが、インダス河谷の沖積平野である。同平野は前記のスライマン山脈の南端部でくぎられ、中流域と下流域の両平野に分かれる。前者はパンジャーブ平原にあたる。パンジャーブ平原は、歴史的には北西辺境地方を経てインド亜大陸に侵入した西方勢力と同亜大陸の土着勢力とが、覇を決する天王山ともいえる役割を幾度も果たしてきた。西方勢力にとっては、ここはインド亜大陸に順化してより東方へと進出していくための拠点確立の場であり、また土着勢力にとっては侵入勢力を撃破すべき戦略的要地であった。それは、ここが半湿潤から乾燥への漸移地帯にあたるという気候上の特質によるところが大きい。パンジャーブとは「五河」を意味し、パキスタンでは西から順にインダス、ジェラム、チェナーブ、ラービおよびサトレジの5河川をさすとされる。パンジャーブ平原は、これら諸河川によって両側を画された河間の地(「二河」を意味するドアーブとよばれる)の集合である。ドアーブは、川沿いの新しい沖積低地を除くと、かつてはわずかに放牧に利用されるだけの荒れ地が大部分を占めていた。しかし1849年にイギリス領に編入されてから、諸河川を水源とする大用水路が建設された結果、パンジャーブは世界有数の灌漑(かんがい)農業地帯と化した。

 インダス川下流域平野は、シンド平原にあたる。パンジャーブ平原を過ぎると、インダス川は激しい乾燥地帯を流れるため、流入する水量の多い河川もなく、下流に向かうにつれて水量が減少していく。そのためガンジス川に比べると、下流部における沖積平野およびデルタの発達は小さい。しかし下流域平野のほぼ頂部にあたるサッカル周辺には、1930年代から独立後にかけてロイド堰(せき)をはじめとする諸堰堤(えんてい)が建設され、そこから延びる用水路によってシンド地方も灌漑農業の発達地帯となった。

 気候的には乾燥気候に属するが、乾燥の度合いは南部ほど激しい。それは、南部では東にタール砂漠が広がっているため、夏の南西モンスーンが及ばないからである。バルーチスターン州西部を除くと、もっとも降水量が少ないのはパンジャーブ平原とシンド平原との境界部であり、そこでの年降水量は100ミリメートルに満たない。ここはまた世界有数の暑熱地で、ジャコババードの6月の1日最高気温の平均は45.5℃に達する。これに対して北部のパンジャーブ平原は、ガンジス川沿いに北西上する夏のモンスーンによる雨が少ないながらも降るため、ラホールの年降水量は632.2ミリメートルとなる。北西辺境州の州都ペシャワルでは年降水量407.1ミリメートルで、年間平均気温は22.8℃(最低1月11.3℃、最高6月33.0℃)、南部のインダス川下流域、アラビア海に面したカラチでは年降水量171.4ミリメートル、年間平均気温26.3℃(最低1月18.4℃、最高6月31.7℃)である。北部山地の前山部では、積雪と地形性降雨のためパキスタン唯一の森林地帯をみる。

[応地利明]

歴史

パキスタンは、世界の四大文明の一つインダス文明の成立地である。同文明の代表的遺跡とされるモヘンジョ・ダーロはシンド平原北部に、またハラッパーはパンジャーブ平原南部に位置する。この意味ではパキスタンは古い歴史をもつ。しかしパキスタンという国家自体の歴史は新しく、その建国は国名のとおりイスラム教と分かちがたく結び付いている。イスラム教は7世紀前半にアラビア半島でおこったが、早くも712年にはシンド地方はウマイヤ朝により征服されるに至った。これが、インド亜大陸における最初のムスリム(イスラム教徒)地方政権の成立であった。

 しかし、より重要なのは、11世紀初め以来のアフガニスタンからのムスリム勢力の侵入と1210年のデリー・サルタナット王権の確立であった。同王権は、13世紀前半にはベンガルにまで支配を拡大し、インド亜大陸北部を支配下に置くことになった。独立に際し、東西二つのパキスタンを構成することになる両地方は、インド亜大陸北部地方において最初と最後にイスラム化された所にあたる。

 パキスタン建国運動は、最後のムスリム征服王朝であるムガル朝にかわってイギリスがインド亜大陸を支配した植民地時代にさかのぼる。当初イギリスは旧支配者のムスリムを警戒し、逆にヒンドゥー教徒を優遇した。1857~1858年の「インドの大反乱」(セポイの反乱)を鎮圧したイギリスは、統治方針を変えて、両教徒の均衡政策いわゆる分割統治政策に転じた。しかしヒンドゥー教徒に比べて人口がはるかに少ないムスリム(20世紀初頭のムスリム人口比率は約20%)の間では、このままでは人口だけでなく政治的にも自分たちが少数集団と化すのではないかという危機感が、19世紀末ころから明瞭(めいりょう)に意識されるに至った。

 その危機感からする具体的な行動が、1906年のインド・ムスリム連盟の結成であった。以後、同連盟はいわゆる二民族理論に基づいてパキスタン建国運動を展開していく。二民族理論とは、ムスリムとヒンドゥーの両教徒は同一民族内で単に宗教を異にするだけの二つの集団ではなく、社会と文化の全般にわたる明瞭な相違をもつ二つの民族であり、それゆえに、民族自決の原則に基づいてそれぞれの国家をもつことにより、両者は共存し発展しうるのだとする理論である。この立場から、ムスリムの分離独立つまりパキスタン国家建設要求を宣言したのが1940年のインド・ムスリム連盟ラホール大会の「ラホール決議」であった。

 1947年の印パ分離独立は、ヒンドゥーおよびシク両教とイスラム教の宗派別人口をもとに各県、藩王国の帰属を決定した。これにより、インドを介して1600キロメートルも離れているうえに、自然環境、民族、文化、言語などの諸点においてまったく異なる東西両パキスタンを領土とするムスリム主権国家が建設された。国家元首にあたる総督にはインド・ムスリム連盟を指導してきた建国の父M・ジンナーが、また首相にはアリー・ハーンが就任したが、多くの困難が待ち構えていた。そのおもなものに限っても、パキスタンの領土となったのは旧イギリス領インドのなかでも工業作物(東パキスタンのジュート、パンジャーブ地方の綿花など)の生産に特化(専門化)した農業地帯であり、それらの加工施設はインドに集中していて国内には工業はほとんど皆無に近い状態であったこと、インドとの間の大量の難民の発生(パキスタンへの流入およびパキスタンからの流出人口はおのおの720万、750万人と推定されている)、とくにパンジャーブ地方における移動時の大量虐殺による憎悪の相互増幅、カシミール藩王国の帰属をめぐるインドとの軍事衝突(第一次印パ戦争)などをあげうる。また建国要求の達成は、逆にイスラム教を唯一の紐帯(ちゅうたい)として結集したムスリム連盟内の利害対立を激化させることになった。

 1948年のジンナーの病死と1951年のアリー・ハーンの暗殺は、この傾向をいっそう強め、政局は混迷を深めた。大統領制を定めた憲法も1956年になってやっと制定されたが、1958年には戒厳令施行に続いて軍事クーデターが発生し、以後、戒厳令による憲法停止は頻繁に繰り返されることになる。

 建国後数年を経ずして東パキスタンでは、言語問題や自治権問題、また西パキスタンとの経済的格差の拡大などをきっかけに、現状を西パキスタンの国内植民地化と規定する主張も現れた。この動きは、1970年の総選挙におけるアワミ連盟の圧倒的な勝利を経て、1971年、東パキスタンのバングラデシュとしての独立へと連なっていった。

[応地利明]

政治

憲法は、イスラム国家らしく、国民が個人的、集団的にイスラムの諸教義に即した生活を送りうる諸方策を講ずる義務を政府が負うことを定め、そのための政府機関としてイスラム教義会議が設けられている。上下二院制と4州からなる連邦共和制を採用している。1971年には初の総選挙によって人民党のズルフィカル・アリ・ブット政権が成立した。しかし1977年にはふたたび軍事クーデターにより、陸軍参謀長ジアウル・ハクMohammad Zia-ul-Haq(1924―1988)が大統領に就任し、1979年首相ブットを処刑して実権を掌握した。

 1988年にはブットの娘ベーナジール・ブットがイスラム圏の国では初めての女性首相となったが、1990年に当時の大統領イスハク・カーンGhulam Ishaq Khan(1915―2006)により解任され、さらに1993年総選挙により首相に返り咲いたが、1996年には大統領サルダル・ファルーク・レガリSardar Farooq Leghari(1940―2010)により再度解任された。

 1997年2月に行われた総選挙では、ナワズ・シャリフNawaz Sharif(1949― )の率いるパキスタン・ムスリム連盟が憲法改正に必要な3分の2以上の議席を獲得し、首相解任・議会解散・州知事任命などの大統領権限を定めた憲法修正8条の廃止を決定した。これにより大統領の政治介入の縮小化による政治の安定が期待された。しかし1999年10月には三たびパキスタン陸軍参謀総長ムシャラフを中心とした軍事クーデターが発生、シャリフ以下全閣僚を解任し、軍政に逆戻りした。2001年6月ムシャラフが大統領に就任。2002年4月ムシャラフ大統領の信任を問う国民投票の結果、同大統領の任期が2007年まで延長され、10月の総選挙では、親ムシャラフのジャマリZafarullah Khan Jamali(1944―2020)が、首相に選出された。1996年11月に起きたエジプト大使館爆破テロにみられるイスラム原理主義勢力の拡大、また独立時に西インドから移動したムスリム流入民を中心とするムハーデル民族運動の活発化によるカラチ、シンドの治安悪化などの問題もあり、政治は不安定である。

 その後、2004年6月にはジャマリ首相が辞任、同年8月にアジーズShaukat Aziz(1949― )が首相に就任するが、ムシャラフ大統領は大統領と陸軍参謀長を兼任、国家安全保障会議(NSC)を創設し、政権の基盤と軍との結びつきを強化した。大統領および下院議員の任期満了は2007年11月15日となっており、それに先立つ同10月6日に大統領選挙が行われ、ムシャラフが圧倒的多数を獲得し勝利した。しかし、野党はムシャラフ大統領の立候補適格性を争う訴えを行い、これを受けて最高裁は、この訴えの審理・判決が出るまでは大統領選挙の公式な結果発表を控えるべきとする旨を示した。同2007年10月、大統領令(国民融和令)により訴追が免除される方向となったベーナジール・ブットが亡命先のアラブ首長国連邦から帰国、政治活動を再開。同年11月3日ムシャラフ大統領が国内全土に非常事態宣言を発令し憲法が一時的に効力停止となるが、同月28日ムシャラフは長らく兼任した陸軍参謀長を辞任し軍籍を離脱、翌29日文民として大統領に正式就任した。しかし12月27日にブットが暗殺され、これを事前に阻止できなかったムシャラフ政権に対する批判の声が高まり、パキスタン国内の政情は不安定な状態が続いた。

 2008年2月、総選挙が行われ、ブットが党首を務めていた人民党が第一党となり、人民党副総裁のギラーニYousaf Raza Gillani(1952― )が首相に就任した。同年8月にはムシャラフが大統領の辞任を表明し、9月に行われた大統領選挙ではブットの夫で人民党共同議長を務めていたザルダリAsif Ali Zardari(1956― )が当選し大統領に就任した。パキスタンの大統領は国民の直接投票による選挙ではなく、国会の上下両院および州議会議員による間接選挙で選ばれる。

 外交は、独立以来のインドとの厳しい対立を軸に動き、インドが非同盟中立、次いで親ソ連路線へと傾斜していくにつれて、パキスタンはアメリカ、中国との連携を強めてきた。三次にわたって戦火を交えた印パ両国は緊張緩和のための会談を続けているが、現実には軍備拡張競争が進んでいる。1997年の国内総生産(GDP)に占める国防予算の比率は5.8%(日本は1.0%)に達しており、2006年の同比率は3.2%であった。軍隊は志願制で兵員数は、陸軍55万、海軍2万4000、空軍4万5000となっている。ほかに国家警備隊や民兵組織がある。

 1998年5月、インドがラージャスターン州で核実験を行ったことに対抗して、パキスタンでもバルーチスターン州で核実験を行い、世界中を揺るがした。その後は両国ともに包括的核実験禁止条約(CTBT)への署名の意向を表明している。1999年2月には両国ともにラホール宣言に合意し、核実験の凍結を表明した。しかし、その2か月後にはインドが中距離弾道ミサイルの発射実験を行うとパキスタンでも新型中距離弾道ミサイルを発射し、両国は緊張関係にあった。その後、両国の首脳会談が何度かあり、カシミール問題を含む包括的対話再開と停戦が模索されているが、しばし中断するなど、予断を許さない状況は続いている。外交方針としては、イスラム諸国との連携を重視し、中国や欧米との協力体制を構築しつつ、インドとの関係改善を図る方向性がみられる。

[応地利明]

経済・産業

独立直後、産業政策の方向として、国有企業は公益事業と重工業のみに限定して、他部門は民間企業にゆだね、外国資本の導入も合弁形態であれば歓迎するとの大綱が定められた。これに沿って、1955年に第一次五か年計画が実施された。その重点は、工業化、灌漑(かんがい)・発電、社会資本充実、教育に置かれた。経済は1950年代を通じて停滞していたが、1960年代になって活況を呈するようになった。その背後には、より徹底した民間企業および外国資本重視への経済政策の転換があった。しかしその結果は、二重の意味での格差の拡大となった。第一は、貧富の差の拡大であり、とりわけ工業部門に進出して成長した財閥への富の集中である。主要財閥は、印パ分離に際しインドの西海岸から移住してきたグジャラートとパンジャーブの両民族を母胎としており、財閥の成長は民族間における格差の増大でもあった。第二は、工業建設が当時の西パキスタンに集中し、東パキスタンのジュート輸出による外貨収入を西パキスタンの工業建設用輸入にあてるという両パキスタン間における本国―植民地関係の固定化であった。1970年代に入ってから、バングラデシュの独立と石油ショックはパキスタンに大きな打撃を与えた。ズルフィカル・アリ・ブット政権は、主要工業の国有化を重要な柱として経済再建にあたったが、経済の基本構造を変えるには至らなかった。第二次ベーナジール・ブット政権は、財政困難を打開するため、赤字削減・外国資本の投資誘致を行ったが成果をあげるには至らなかった。1998年には外貨準備高11億ドルに対して、対外債務は1997年で297億ドルに達した。

 労働力人口からみると、2005年現在でも44.5%が農林水産業従事者であり、依然として農業国であることを示している。しかし、かつての西パキスタンを取り上げて、国民総生産(GNP)に占める農業と工業の比率の変化をみると、独立当初の1949年にはおのおの55%、8%であったのが、1994年には24%、19%となっていて、農業の比重低下と工業の上昇がみられた。この間を通じて製鉄、石油精製、化学などの重工業の建設も進められたが、工業の中心はいまなお紡績、綿布、じゅうたんなどの軽工業にある。農業は、小麦、米、綿花などを主要生産物としている。小麦と米の生産は、1960年代末からの「緑の革命」によってパンジャーブ地方を中心に拡大を遂げ、1960年に比べて1995年にはおのおの3.5倍、4.7倍に増大した。とくに米は重要輸出品となった。2006年の小麦生産量は2128万トン、米生産量は814万トンである。

 鉱産資源としては、ポトワル高原で原油を産するが、輸入総額の13%を原油、12%を石油製品が占めている(2006)。エネルギー源としてもっとも重要なのは天然ガスで、全エネルギー需要の約40%を供給する。シンド平原北西部のスイ周辺がその産出地帯で、そこからパイプラインで主要都市に供給されている。パンジャーブ地方における印パ間の水利紛争は、1960年の世界銀行の調停によるインダス川水利条約の締結で解決をみた。同条約によって、インダス、ジェラム、チェナーブ3河川の水利権はパキスタンに、ラービ、サトレジ両河はインドに帰属することになった。水利転換のためにインダス川をせき止めて建設したターベラ・ダムは、灌漑だけでなく水力発電のうえでも重要な役割を果たしている。同じイスラム教国であるサウジアラビアやペルシア湾岸諸国への出稼ぎ労働者が多く、彼らによる送金が外貨収入のなかで最重要な位置を占め、輸出総額を上回るほどである。しかし国際収支は慢性的な赤字が続いている。

 2007年現在も、パキスタンの主産業は農業と綿工業である。以前に比べ、経済状況は改善されているが、貧困問題などの課題が残る。2007/2008年度のGNPは1701億ドル、1人当りGNPは1057ドル、実質経済成長率は5.8%、失業率は5.2%、外貨準備高は111億6400万ドル(2009年4月)、対外累積債務残高が401億7200万ドルとなっている。貿易額は輸出が201億2000万ドル、輸入が354億2000万ドル、主要貿易品目は、輸出が綿花関連製品、皮革製品、合成繊維衣料品、米、輸入が石油製品、原油、機械類、肥料・化学品、鉄鋼、食料品、主要貿易相手国は、輸出国がアメリカ、アラブ首長国連邦、中国、アフガニスタン、イギリス、輸入国がサウジアラビア、中国、アラブ首長国連邦、アメリカ、日本となっている。通貨はパキスタン・ルピーPakistan Rupee。

[応地利明]

社会・文化

前述のようにムスリム「民族」国家として建設されたため、宗教別人口はイスラム教が96.3%と圧倒的に多く、ヒンドゥー教、キリスト教はおのおの1.6%にすぎない。しかしこのことは、パキスタンに民族問題が存在しないことを意味するものではない。各主要言語の話者人口をもって民族とすると、パンジャーブ人が53%と全人口の半数以上を占め、北西辺境州を根拠地とするパターン人(パシュトゥン人)が16%、ついでシンド州を主とするシンド人が13%、バルーチスターン州とシンド州とに広がるバルーチ人が4%となっている。公用語のウルドゥー語を母語とする話者人口は8%で、彼らは大都市に在住するかつてのインドからの移住民を主としている。1970年のバングラデシュの独立は、ムスリム「民族」の一体性の崩壊を意味し、バルーチ人やパターン人の自治要求を活気づけることになった。その背景には、人口だけでなく政治・経済的にパキスタンを支配しているパンジャーブ人ひいては中央政府に対する反発がある。政府による建国理念への回帰の強調は、こうした民族間対立の融和、ひいては国家求心力の回復をイスラム教を紐帯(ちゅうたい)としてふたたび目ざそうとする一面をもっている。

 しかしパキスタンは、政教一致のイスラム国家ではない。むしろ独立以後イスラム教を掲げつつも、内政面では政教分離を模索してきたといったほうがよいかもしれない。法体系をみても、私法はイスラム法の影響を色濃くとどめているが、公法はイギリス法思想に基づいている。歴史的にもインド世界としての一体性を共有してきた関係から、ヒンドゥー教の影響も認められる。とりわけパンジャーブ地方の農村では、社会構成も神の前の平等を旨とするイスラム的原理のみによるのではなく、ヒンドゥー教のもつカースト制度に類似する成層化を示している。

 教育は、5歳からの5年間の初等教育が無償である。成人の識字率は55%(2006/2007)となっている。

 民族なき民族自決という建国過程の特異性のために、パキスタンはなお独自の国民文化を生み出すまでには至っていない。国内の主要民族は、それぞれの歴史に裏づけられた民族文化また独自の慣習をもつが、それらの多様性を統一する役割を担うべきイスラム教は、その普遍性ゆえに逆に国民文化創出の核とはなりえないというジレンマが存在する。インド的文化としての伝統の共有も、国民文化の創出を困難にしている条件である。パキスタンにおけるもっとも人気の高い娯楽である映画をとってみても、インド映画へのあこがれが強い。これには、国内映画産業の未発達という事情があるにせよ、インドとの根強い文化的結び付きが働いていよう。

[応地利明]

日本との関係

パキスタンは日本への関心も強く、アジア諸国のなかではもっとも早くビザの相互免除を認めた国であった。しかし現在では、就労のための日本国内の不法滞在者の増加から、それは中止されている。国内を走る自動車のほとんどが日本の中古車ないし日本との合弁企業による生産車であることが示すように、日本との関係は経済分野で活発である。しかし貿易は、慢性的なパキスタンの輸入超過であり、2007年の対日輸出額は289億9000万円、輸入額は1832億1000万円で、1542億2000万円の輸入超過となっている。日本への輸出品目は石油製品、織物用繊維糸、革製品、綿織物、敷物などで、輸入品目は自動車およびその部品、機械類、電気機器、鉄鋼などである。

 パキスタンへの政府開発援助(ODA)では、日本は2007年に無償資金協力47億6300万円、技術協力13億9300万円を支出しており、2006年の主要国援助実績ではアメリカに次いで第2位であった。

[応地利明]

『日本貿易振興会編・刊『パキスタン』(1990)』『山中一郎編『パキスタンにおける政治と権力――統治エリートについての考察』(1992・アジア経済研究所)』『佐藤拓著『パキスタン・ビジネス最前線――駐在員が見た実力と将来』(2000・ジェトロ)』『堀本武功・広瀬崇子編『現代南アジア3 民主主義へのとりくみ』(2002・東京大学出版会)』『辛島昇他監修『南アジアを知る事典 新訂増補』(2002・平凡社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「パキスタン」の意味・わかりやすい解説

パキスタン
Pakistan

基本情報
正式名称=パキスタン・イスラム共和国Islami Jamhuria-e-Pakistan/Islamic Republic of Pakistan 
面積=79万6095km2(ジャンムー・カシミールなどを除く) 
人口(2011)=1億7710万人(ジャンムー・カシミールなどを除く) 
首都イスラマーバードIslamābād(日本との時差=-4時間) 
主要言語=ウルドゥー語 
通貨=パキスタン・ルピーPakistani Rupee

インド亜大陸の北西部にある共和国。正式国名に〈イスラム〉を明記している点に特徴がある。1947年8月14日,イギリス植民地インドのうち,面積では約4分の1,人口では約5分の1にあたる北西部と東ベンガルのムスリム多住地域がインド(バーラト)とは分離して独立した国である。56年3月までイギリス自治領の地位にあり,それ以後イギリス連邦内の共和国となった。この時点でパキスタン・イスラム共和国となったが,62年3月~64年1月の間は〈パキスタン共和国〉と称した。

 〈パキスタンPAKISTAN〉とはウルドゥー語で〈清浄な国〉を意味すると同時に,パンジャーブ州のP,北西辺境州(アフガン州)のA,カシミールのK,シンド州のS,バルーチスターン州の末尾のTANを結合したものである。独立当時は東西に1800kmも離れた〈飛び地国家〉で,面積では〈西〉が85%,人口では〈東〉が55%を占めた。しかし,主として民族問題の矛盾から,東パキスタンは71年3月に内戦,第3次インド・パキスタン戦争を経て〈バングラデシュ〉として独立し,パキスタンは従来の西パキスタンに限られた。面積は約80万km2で日本の2倍以上。人口の97%をムスリム(イスラム教徒)が占めている。

パキスタンは東側をインド,西側はアフガニスタン,イランと国境を接している。インドとの係争地であるカシミールは,中国の新疆ウイグル自治区とチベット自治区とに接しており,1978年に完成したカラコルム・ハイウェーは首都イスラマーバードと中国の新疆ウイグル自治区を短時間で結びつけている。パキスタンの北端はカラコルム,ヒンドゥークシュ両山脈が走り,その山間から南のアラビア海まで国土の中心部をインダス川が貫流している。インダス川西側はシンド州北部の平地を除くと南北方向にスライマーン,キルタール両山脈が走っており,そこを西へ越えるとアフガニスタンとイラン国境まで山岳地帯が続く。インダス川東側は平地であるが,インドとの国境地帯は北部のパンジャーブ州を除けば,砂漠地帯が広がっている。インダス水系は産業とくに農業にとってきわめて重要で,その流域平野に国民の80%以上が住んでいる。

 気候は北部山岳地帯と南部の平野で大きく異なる。1年は短い冬と長い夏に分かれ,また夏の後半2~3ヵ月の雨季とそれ以外の乾季に分かれる。雨季は南西モンスーンの影響で雨が降る。夏は南北でずれるが,4月ころから始まり5~6月は最暑期になり,日中の気温が40℃を超えるのは珍しくない。冬は平地では快適であるが,山岳地帯の寒さは厳しく,深い雪がみられるところもある。

 雨季を除くと乾燥気候で,インダス水系の活躍の場である。パンジャーブ州では,インダス川東側にジェラム,チェナーブ,ラービー,サトレジ,ビアスのインダス5支流が流れ(ビアスのみはインド(バーラト)内を流れ,サトレジ川に合流),これら河川からの運河はパンジャーブ地域を世界でも有数の人工灌漑地としている。パンジャーブ州はパキスタンの穀倉地帯であり,1960年代の〈緑の革命〉の過程で小麦,綿花,サトウキビ,米の生産性を大幅に高めることに成功した。

パキスタンは多民族国家であり,民族と言語集団はほぼ対応している。主要な民族・言語集団の総人口に占める比重は,パンジャービー66%,シンディー13%,パシュトゥーン(パシュト語)9%,バルーチ族3%となっている。ほかにウルドゥー語を母語とするものが8%を占めるが,彼らは1947年の分離独立以降移住してきたムハージルMuhajirと呼ばれる北インド出身者が主体である。カラチにはグジャラーティー語を母語とする商人層も存在する。また,インドと係争中のカシミール地域(パキスタン支配領域は〈アーザード(自由)・カシミール〉と呼ばれる)にはカシミーリーを母語とする者もいる。主要民族・言語集団の地理的分布は行政上の4州(パンジャーブ州,シンド州,北西辺境州,バルーチスターン州)にほぼ対応しているが,バルーチ族の60%近くはシンド州に居住している。ウルドゥー語を母語とする人々の約半数はシンド州のカラチやハイダラーバードなどの都市部に居住している。

 公用語はウルドゥー語であるが,官庁,高等教育機関での英語の役割はあいかわらず大きい。1973年憲法は,ウルドゥー語が15年以内に完全に公用語化されるまでの過渡的な処置として英語の併用を認めていた。しかし,英語の役割が早急に低下することは近い将来予想しがたい。ウルドゥー語,英語は諸民族・言語集団をつなぐ共通語であるが,ウルドゥー文学が独自の領域を開拓してきたことも見のがせない。また,シンディー文学など各民族語とその文学の発展が,各民族のアイデンティティ強化の動きと軌を一にしているとみられる。東パキスタンの分離独立が中央政府によるベンガル語抑圧政策と無関係でなかったように,パキスタンにおける諸民族語のあり方は,その民族の政治的・社会的地位と無関係ではない。

〈飛び地国家〉として分離独立したパキスタンの課題は,第1に国家統合の理念を確立して国家体制を整備することであった。インド亜大陸のヒンドゥーとムスリムは別個の歴史を有する別個の民族であり,おのおの別個の国家をもつべきであるとする〈二民族論〉を基礎としながら,パキスタンが〈イスラム国家〉か〈政教分離(セキュラー)国家〉であるべきかの課題は未決着であり,今日に至るまでパキスタン国家のアイデンティティの問題として残されている。また,多民族国家であるパキスタンの現実を国家統合とどう調和させるかも苦痛に満ちた未解決の課題である。1971年のバングラデシュ独立は,東パキスタンのベンガル民族が,ムスリム・アイデンティティより民族アイデンティティを選択したことを意味した。1970年7月に西パキスタンが1州から4州に再編成されたことも東ベンガルの動きと無関係ではない。

 パキスタンの政治権力はパンジャービーを支配民族とする軍事・官僚支配体制に支えられ,階級的には財閥とならんで,不徹底な土地改革のため大地主が支配階級となった。公法レベルでは〈政教分離主義(セキュラリズム)〉が支配し,民事レベルではイスラム法の影響力も大きい構造となっている。しかし,1971年の第3次印パ戦争以降,特にジア・ウル・ハク政権以降には,イスラム協会(ジャマーティ・イスラーミー)が与党に参加するなど,公法レベルでもパキスタンのイスラム国家化が顕著になった。議会制民主主義が定着せず軍政期間が長かったこともインドと異なる特徴となっている。1988年の民政移管後も必要に応じて軍が大統領を通じて影響力を行使する体制が生きている。しかしイスラム化とならんでカラチにおけるムハージル(インド出身者)とシンディー住民の衝突など民族間対立も激化しており,国内の諸民族の共存はパキスタンの国民統合と民主主義にとって不可欠の課題になっている。とくに国内の諸民族の権利をどれだけ認めるかは,パキスタンの民主主義発展に深くかかわる課題である。

イギリス領インドにムスリムの独立国家を建設しようとする運動は,1930年にさかのぼることができる。この年のムスリム連盟の年次大会で,詩人・思想家イクバールは〈ムスリム国家〉構想を提唱,しかしその内容は不明確な点を含んでいた。40年,同連盟のラホール年次大会で,連盟議長ジンナーは,インドは文化,伝統をまったく異にするヒンドゥー,ムスリム二つの民族から構成されているという〈二民族論〉を打ち出し,これに基づき少数派のムスリムのための分離独立国家の樹立を主張,ラホール決議として採択された。第2次大戦中の42年,インドの政党に戦争への全面的協力を求めたクリップス使節団の提案には,戦後の自治領としての地位付与が含まれており,植民地独立がほぼ確定的となる。大戦中,ヒンドゥー教徒を代表する政党国民会議派は,イギリスに対する〈インドを立ち去れ〉闘争で大量の投獄者を出したが,この間ムスリム連盟は下層ムスリムの支持をも獲得して勢力を拡大,分離独立を強く要求するにいたった。戦後,イギリスによる両党間の調停は失敗し,47年6月マウントバッテン総督は分割案を発表,これを両党が受諾し,インド独立法Indian Independence Act(1947年7月18日)に基づき,パキスタンは8月14日に自治領として独立を達成する。

 独立後,ジンナーが国家元首であるパキスタン総督に就任,リヤーカト・アリー・ハーンが首相となった。しかし,建国の父ジンナーは48年に病死し,リヤーカトも51年に暗殺され,この間インドとのカシミールを巡る戦争(インド・パキスタン戦争),さらにムスリム連盟が統治政党への転化に失敗したことなどで,政治的混乱が続いた。その過程で今日に至るパキスタンの政治権力構造の特徴である軍部と高級官僚の支配体制が形成されていった。また,インドの脅威への対抗を軸とする外交路線はパキスタンをアメリカを中心とする反共地域軍事同盟に接近させた。54年5月にアメリカと相互防衛援助協定を締結するとともに,東南アジア条約機構(SEATO)に加盟,55年9月には中東条約機構(METO。1959年には中央条約機構(CENTO)に改組)に加盟した。56年の新憲法はパキスタンを〈イスラム共和国〉としたが,立法,司法,行政など国政面で〈政教分離主義〉が打ち出された。また西パキスタン諸州は行政的に一本化され,〈西パキスタン州〉となった。しかし,憲法で規定された総選挙は再々延期され,ついに58年10月アユーブ・ハーン陸軍司令官はクーデタを敢行し,憲法を廃止して軍事政権を樹立した。

 アユーブ・ハーン軍政下では,世銀および西側諸国の援助に依存しつつ,民間主導型の急速な資本蓄積が実現された。62年の中印戦争後は中国に接近し,中国との友好関係維持は親西側政策とともにパキスタンの外交原則として確立した。軍事政権は政党活動を禁止し,〈統制された民主主義〉の名のもとに〈基礎的民主制〉が導入された。しかし,65年9月の第2次インド・パキスタン戦争での敗北以降,経済成長の歪みによる貧富の差の拡大,東西パキスタン間や西パキスタン内での地域較差拡大,官僚,財閥の汚職,腐敗などを理由に反政府運動が広がった。69年3月,アユーブ大統領は反政府運動の高揚を前に全権をヤヒヤー・ハーンAgha Muhammad Yahya Khan陸軍司令官に移譲した。70年12月の初めての成人普通選挙で,東パキスタン州の大幅な自治を要求するアワミ連盟(ムジブル・ラーマン総裁)が圧勝した。ヤヒヤー大統領は71年3月,東パキスタン民衆に対する武力弾圧を強行し,多数のベンガル人が虐殺された。アワミ連盟はバングラデシュの独立を宣言するとともに,インドの援助も受け各地で抵抗を組織した。71年12月の第3次インド・パキスタン戦争の結果,パキスタンは東パキスタンへの支配を放棄し,西パキスタンのみ残存することとなった。パキスタンは建国以来最も深刻な国家的危機に直面した。

 71年12月にヤヒヤー辞任をうけ新大統領となったパキスタン人民党(PPP)のZ.A.ブットーは,〈東〉なきパキスタンの復興に全力をあげた。ブットー路線は,民間企業国有化などの〈社会主義化〉と〈民主主義〉を強調した。73年8月に発効した新憲法は,議院内閣制をうたい首相権限を強化したほか,司法の独立性も強められた。さらに軍の政治への関与を否定した。直ちに首相となったブットーは,SEATO脱退(1973年11月),バングラデシュ(1974年2月)のほかインドとの関係正常化を進めた。77年3月の文民政権支配下での初めての総選挙で,与党PPPは圧勝した。しかし,1971年の戦争以降も非常事態宣言を解除しない強圧姿勢,バルーチ族の反乱(1973-77)への弾圧,〈社会主義化〉によって特権を奪われた一部階層と生活向上への期待が満たされなかった社会的底辺層の不満が急激に反政府運動に転化された。77年7月にジア・ウル・ハクMohammad Zia-ul-Haq陸軍参謀長がクーデタを決行,戒厳令を布告して1973年憲法を停止し,議会を解散した。こうして,パキスタンの議会制民主主義は再び軍政に地位を譲った。

 ジア戒厳令司令官は自ら発表した民政復帰の公約を何度も反古にして,事実上長期政権をめざした。79年4月には殺人教唆で有罪とされたブットー前首相を世界各国の助命嘆願を無視して処刑した。ジアは軍政当初から〈イスラム化〉を強調し,外交的にもサウジアラビアや革命後のイランとの関係を深めた。79年12月のソ連軍のアフガニスタン侵攻は,〈対ソ前線国家〉としてのパキスタンの国際的地位を高め,ジア軍事政権の基盤強化に貢献した。85年2月,ジア政権は政党色抜きで国会と州議会の選挙を実施し,3月には73年憲法を大幅に修正(強力な大統領制の導入),12月に戒厳令を解除した。しかし,戒厳令解除で政党活動が再開されると,反政府活動が活発となり,民族対立による抗争やアフガニスタンがらみのテロも頻発した。

 88年8月,ジア・ウル・ハク大統領を乗せた軍用機が墜落,大統領は急死した。これを契機に民政が復活し,同年11月の国会選挙で野党のPPPが第1党となり,処刑されたブットー元首相の娘ベナジール・ブットーBenazir Bhutto(1953- )がイスラム圏初の女性首相に就任した。政権は国民に歓迎されてスタートしたものの,90年8月,ブットー首相は突然〈統治能力の欠如,政治の腐敗〉を理由にイスハーク・カーン大統領(1988年12月正式就任)によって解任され,10月の選挙ではイスラム民主同盟(IJI)が国会・州議会でも圧勝し,ナワズ・シャリーフNawaz Sharif(ムスリム連盟ナワズ派党首)が首相に選出された。しかしシャリーフ首相も93年4月に首相の汚職,軍の権威を失墜させようとしたなどの理由で大統領によって解任され,10月までに3人の首相が交代するなど政局は混乱した。同年10月の選挙でPPPは単独過半数は獲得できなかったが第1党となり,第2次ブットー内閣が発足した。しかしレガリ大統領(1993年就任)は96年11月,身内びいき,ブットー家内部での確執,首相の夫ザルダリを含む汚職容疑,執政への不信などを理由にブットー内閣を解任し,国会と州議会を解散した。これら一連の首相解任の背景には軍部の強い意向があった。ハーリド暫定内閣の手で行われた97年2月の総選挙ではナワズ・シャリーフが3分の2の議席を獲得して圧勝し新内閣を発足させたが,経済危機と国内治安など多くの困難な問題に直面して安定した民政は実現していない。

独立以来,隣国インド(バーラト)と3度にわたり戦火を交えており,両国間の懸案であるカシミール所属問題は1949年の停戦ラインのまま決着をみていない。パキスタンはインドの脅威に対抗することを外交・軍事政策の最重点におき,その観点から親中国・親西側を原則的路線としてきた。1971年のバングラデシュ独立以降は,72年1月にイギリス連邦脱退,同年11月には東南アジア条約機構を脱退するなどの手直しを行った。79年3月にはイラン革命で有名無実化した中央条約機構を脱退し,同年9月のハバナでの非同盟運動首脳会議には正式メンバーとしての参加が認められた。

 パキスタン軍総兵力は58万7000人(1994年現在。陸軍52万人,空軍4万2000人,海軍2万2000人)で,インド(バーラト)軍の約半数にあたり,志願兵制である。これ以外に準軍事武装勢力として27万5000人がいる。国家財政の少なくとも3分の1が軍事費で占めることになり,財政硬直化の要因ともなってきている。

パキスタン経済は,〈飛び地国家〉,旧イギリス領インドの経済的後進地域,かつインドからの大量の難民流入という不利な条件から出発した。〈西パキスタン〉は綿花と小麦,〈東パキスタン〉はジュートと米の供給地であったが,インド市場との切断は大きな打撃であった。イギリス領インドの主要工業中心地はインドに残った。独立直後(1949年7月~50年6月)のGNP(国民総生産)構成比は農業60%(〈西〉は55%,〈東〉は65%)であったのに対し,鉱工業・建設業は合わせて12%(〈西〉は14.7%,〈東〉は9.4%)にすぎなかった。製造業も小規模で,食品加工やジュート,綿花などの一次加工に限られていた。その後の開発路線は1948年の〈産業政策声明〉で示されたように民間資本主導型であり,インド(バーラト)の開発路線と対照的であった。52年にパキスタン産業開発公社(PIDC)が設立され,国家資本により各種工場が設立され,軌道にのると順次民間に払い下げる方式がとられた。

 政治的混乱などで1950年代末まで停滞したパキスタン経済は,アユーブ・ハーン時代に入ると高成長期を迎えた。第1次五ヵ年計画は55年に始まったが,60年からの第2次計画期,65年からの第3次計画期にGNPはそれぞれ年平均5.5%,5.7%の成長率を達成した。69/70年度にはGNPに占める農業は45%に低下し,製造業は12%となったが,綿・ジュート紡績は輸出産業としての地位を確立した。外国援助への依存(公共部門投資の約50%)を強め,財閥の急成長とならんで貧富の較差拡大がみられた。〈東〉が外貨を稼ぎ,大部分の投資が〈西〉になされるという東西較差拡大は,〈東〉の不満を強め,71年のバングラデシュ独立の一要因となった。

 第3次インド・パキスタン戦争と東パキスタンの喪失,その後のインフレーション,労働争議激化はパキスタン経済に大きな打撃となった。ブットー政権は主要業種の国有化に着手するなど〈社会主義化〉を打ち出した。通貨ルピーの57%切下げ(1972年5月),綿花価格の高騰などの好条件,さらに中東など代替輸出市場の開拓などは,東パキスタン喪失後の調整過程を比較的スムーズなものとした。しかし,第1次石油ショック(1973年末)が起こり,非産油国のなかでは最も大きな打撃を受けた。こうした事態のなかで,中東産油国からの援助が急増したことと,大量のパキスタン人労働者が建設ブームとなったペルシア湾岸に出稼ぎに出るようになったことは一面明るい要素となった。特に出稼ぎ労働者の本国送金は急増し,75/76年には輸出額の30%に相当した。その後も出稼ぎ送金は増加を続け,81/82年には24億ドルで商品輸出額23億ドルを超えるものとなった。中東,ペルシア湾岸地域との経済的結びつきはいっそう深いものとなった。

 1977年7月に成立したジア軍事政権は,ブットー前政権の〈社会主義〉路線から民間資本重視へ政策転換を行った。第5次五ヵ年計画(1978/79年度~82/83年度)のGNP年平均成長率は6.5%で比較的順調な伸びをみせ,農業は年率4.5%,工業は年率9~10%の成長を記録した。その間,79年に入るとジア政権は〈経済のイスラム化〉を唱え始め,81年1月には利子を認めない〈イスラム銀行〉(預金者は利子のかわりに6ヵ月ごとに利益・損失の配分をうける)を発足させた。81年にはソ連の援助によってカラチ製鉄所が完成して,重工業化も進み始めた。輸出品構造も高度化しつつあり,第5次五ヵ年計画期の輸出増加額の50%は機械,器具,肥料,化学,合繊などで占められた。

 しかし,パキスタン経済は1980年代半ば以降,年数パーセントの成長率を続けつつも構造的な問題に直面している。第1に,恒常的な貿易収支の赤字と国際収支問題である。国民総生産に対する経常赤字比率は4%から増加傾向にある。90年代半ばには予算に占める内外債償還が45%以上になった。その間IMFと数回借り入れ協定を締結したが,コンディショナリティーを満たすことができずに中途で停止されてきた。96年末には対外累積債務は280億ドルに及びデフォールト直前の危機に直面し,IMFの条件をある程度のまざるを得なくなった。貿易構造を見ると輸出は綿糸・綿製品が約半分を占めるに至っているが,輸入では機械設備,化学原材料,エネルギー資源が大きい比重を占めている。第2の問題は,インド(バーラト)との対立に備えるための軍事費が聖域となっており,中央政府予算の少なくとも3分の1を占め財政を圧迫していることである。第3に,農業生産の頭打ちである。主要穀物である小麦生産は1970年代半ばまで800万t台であったが,タルベラ・ダムの完成などで80年代初頭には1200万tの水準に達しほぼ自給を達したと見られた。しかしその後の生産増加率は緩やかで,人口増を考慮に入れると97年においても輸入を強いられている。砂糖も国内生産では不十分で輸入に頼らざるをえない。綿花生産も頭打ちになっている。第4に,経済改革,特に税制改革がなかなか進まないことである。1億3100万(1997年現在)の人口のうち,直接税の納税者は100万人に過ぎない。特に農業所得税の導入については強大な地主の抵抗があり,1990年代半ばに各州で導入されてもその実施は容易でないと見られている。

パキスタンはムスリムが圧倒的多数を占める多民族・多言語国家である。1971年に東パキスタンの分離独立により,人口に占めるムスリムの比率は97%となり,ヒンドゥー,キリスト教徒,パールシーなどの宗教的マイノリティの比率はいっそう低下した。ムスリムのなかではスンナ派のハナフィー派が圧倒的多数を占めているが,4分の1から5分の1はシーア派である。シーア派系のイスマーイール派のホジャ派やボホラ派は産業界で重要な地位を占めている。また,19世紀に生まれた独特な教義を有するアフマディー教団も存在する。同派は国内では少数派であるが,官界,軍に積極的に進出している。アフマディー教団はパキスタン国家の〈イスラム性〉を強調するイスラム協会などの宗教・政治グループによって〈異端〉攻撃を受け,1973年憲法においても非ムスリム・マイノリティと規定された。

 パキスタン人のアイデンティティは,部族,民族,言語,パキスタン国家,イスラム世界などと重層的であり,かつ流動的である。地理的アイデンティティにしても,インド亜大陸に属するのか,中東イスラム世界に属するかの揺れがみられる。さらにパキスタン・ムスリム特有の問題として,ヒンドゥーからの改宗以前のカースト秩序が現在でも果たしている機能が注目される。また,相続においても,イスラム法が純粋に適用されずヒンドゥー法的慣習法との妥協が行われる場合も多い。その結果,女性の相続権は弱い立場に置かれることが多い。村落における支配構造もインドのそれとの相違点よりも類似点が多い。都市化の進展は農村から都市への労働力の移動を生み,さらに1970年代半ばに開かれたペルシア湾岸産油国での雇用機会の急増は,数多くの出稼ぎ労働者の流れを生んだ。新たな社会の流動化と都市問題の深刻化がみられる。既存の農村秩序への長期的インパクトが注目される。

 現在の教育システムは1972年の新教育政策に基づいており,初等教育の義務化をうたっているが,まだ実現していない。新教育政策は同時に成人識字プログラムとイスラム教育を強調している。イスラム教育として,コーラン,ムハンマドの生涯などを学び,最初の8年間はスンナ派,シーア派共通,後の2年間は別々に学ぶ。教育は次第に普及してきているとはいっても,憲法上の権利である初等教育での就学率は半数以下である。ユネスコの調査では1990年現在で小学校での就学率は46%,中学校では33%となっており,成人の非識字率は約65%と相変わらず高い。一方総合大学の数は1993年現在で24,学生数は約8万6000人となっている。なお,独立以前の歴史・社会については〈インド〉の項を参照されたい。
執筆者:

インド亜大陸の北西部のパキスタンの美術は,亜大陸の他の地域のそれと不可分の関係にある一方,内陸アジアから異民族が絶えず流入し異質の文化が導入されたため他の地域と趣を異にする面もある。その美術は先史時代のインダス文明,古代のガンダーラ仏教美術,ムガル帝国時代のイスラム美術に代表される。インダス文明はインダス川流域を中心に前2350-前1700年ころに栄えた文明で,モヘンジョ・ダロとハラッパーとの二つの都市遺跡がことに有名である。神殿,王宮,王墓のような建造物こそ見られないものの,文字と青銅の鋳造技術とをもち,度量衡が統一され,都市は整然とした計画のもとに建設されていた。のちのヒンドゥー教文化の諸現象には,この文明に起源すると思われるものが少なくない。前1500年を中心にアーリヤ人が移住し,ベーダに基づく文化を生んだが,この時代の遺品は乏しい。次いで前6世紀以来異民族の支配が相次ぎ,ペルシア,ギリシア,ローマ文化が移植されるとともに,前3世紀には仏教文化も伝えられて,クシャーナ朝の支配期にガンダーラ,タキシラ,スワートで独得の仏教文化が開花した。インドと西方の諸文化の交流によりこの地方で展開したガンダーラ美術は,石造彫刻を中心とする仏教主導の美術で,仏陀の姿を初めて表現したことと,仏陀の事績の図像を定型化したことで知られ,中央アジアや中国の仏教美術に多大の影響を与えた。この仏教美術も5世紀中期のエフタル族の侵入によって衰退し,8世紀にはアラブ,9世紀にはインドのヒンドゥー教徒の侵入があり,11世紀にガズナ朝の支配下に入って以後はイスラム文化が優勢となった。イスラム美術は建築が中心で,ムルターンにはムガル帝国以前の建築を代表する五つの廟墓があり,タッタには16~17世紀のモスク,廟墓がある。ムガル帝国の遺構は,バードシャーヒー・モスクをはじめラホール市内に城砦,宮殿,廟墓その他が多い。
インド美術
執筆者:

パキスタンの音楽は,三つに大別できる。第1は,インダス流域の平野部を中心とする古典音楽と民俗音楽である。イスラムの北インド侵入によって,インド的要素と西アジア・イスラム的要素を融合させた北インド古典音楽,すなわちヒンドゥスターニー音楽の豊かな伝統は,第2次世界大戦後のインドから東・西パキスタンの分離,さらに東パキスタンが自立してバングラデシュとして分離して以来,パキスタンにおいてより純粋な形で継承されている。それはヒンドゥスターニーの古典音楽の著名なイスラム教徒の音楽家たちが,パキスタンに移住して活発な活動を開始したことと,パキスタン音楽の発展を担う行政をはじめとする支援の強化に起因している。したがって古典音楽はインドの古典音楽とほとんどすべてを共有している。民俗音楽は,それぞれの地域的変容を示すが,隣接するカシミール,パンジャーブ,ラージャスターンなどと共有する要素が多い。とくにヒンドゥー的要素を残した低いカーストに位置づけられる専業音楽家集団が数多く存在していて,旅芸人的に各地を巡っている。

 これらの影響によるためか,平野部における土着の音楽は比較的素朴で,両面大太鼓のドール(あるいはダーダン)と縦笛スルナイの組合せ,擦弦楽器サーランギー,またハルモニウムや横笛バンスリーなどが使用されている。民俗音楽の主流は無伴奏の歌唱で,麦刈りなどの労作歌をはじめ抒情的な歌が多い。

 第2は,都市的な流行音楽である。カラチ,イスラマーバード,ラーワルピンディー,ペシャーワルなどの都市部においては,映画音楽の主題歌などの流行が著しく,レコード,カセットテープ,CDなどがこれらの現代的音楽の主流を占めている。

 第3は,最も特色をもつパキスタン周辺地域の音楽である。ヒンドゥークシュおよびスライマーン山脈の東側,アフガニスタンに隣接する北西部山岳地帯の音楽は,アフガニスタンにも分布するパシュトゥーン族(アフガン族)の音楽が中心である。さらに,アレクサンドロスの将兵の末裔という伝説をもつカーフィル系のカラーシュ族などの小部族社会の音楽も特異なものである。他地域ではすでに使用されない古い形態を残す弓形ハープのワッジ,胴のくびれた鼓シャパなどの楽器を今日も使用している。北部のカラコルム地域のかつての小王国フンザ,ギルギットやバルーチスターンなどでは,いずれも専業音楽家集団ベリチョー,モンなどが存在し,両面大太鼓ダーダン,ケトルドラム型の1対の片面太鼓ダマル,スルナイをいずれも1組のセットで使用している。固有の歌では,チベット,モンゴルに広がる〈ケサル〉の叙事詩をはじめ,多くの恋愛歌などが無伴奏で歌われている。

 インダス川支流のゴマール川より南,アラビア海までの地域,バルーチスターンの音楽は,インド,アフガニスタン,イラン音楽の諸特性を融合させた固有なバルーチの音楽が豊かである。
アフガニスタン[音楽] →インド音楽
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「パキスタン」の意味・わかりやすい解説

パキスタン

◎正式名称−パキスタン・イスラム共和国Islami Jamhuriae-Pakistan/Islamic Republic of Pakistan。◎面積−79万6100km2(ジャンム・カシミールなどを除く)。◎人口−1億9229万人(2011)。◎首都−イスラマバード(116万人,2012)。◎住民−パンジャービー66%,シンディー13%,パシュトゥーン人9%,バルーチ人3%など。◎宗教−イスラム(国教)97%(うちスンナ派75〜80%)。◎言語−ウルドゥー語(公用語),シンディー語,パンジャービー語,パシュト語,バルーチ語などのほか,英語も広く話される。◎通貨−パキスタン・ルピーPakistan Rupee。◎元首−大統領,マムヌーン・フセインMamnoon Hussain(1940年生れ,2013年9月就任)。◎首相−ナワズ・シャリフMian Muhammad Nawaz Sharif(2013年6月就任)。◎憲法−1973年8月発効,2002年8月改正。◎国会−二院制。上院(定員100,任期6年),下院(定員342,うち直接選挙272,任期5年)。2013年5月の総選挙の結果,第1党はムスリム連盟ナワズ派(PML-N),第2党は人民党。◎GDP−1683億ドル(2008)。◎1人当りGDP−925ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−45.6%(2003)。◎平均寿命−男65.7歳,女67.5歳(2013)。◎乳児死亡率−70‰(2010)。◎識字率−54%(2008)。    *    *インド亜大陸の西端を占める共和国。〔自然〕 北部にカラコルム山脈,ヒンドゥークシ山脈があり,北西部からスライマーン山脈が南に延びる。アフガニスタン,イランと西の国境を接し,ハイバル峠はインドから北に抜ける通路として重要。中央部のインダス川流域の平野で,その南東部にタール砂漠がある。気候は亜熱帯に属し乾燥する。〔歴史〕 前3500年ころからドラビダ人が住んでインダス文明の中心地となったが,前10世紀ころアーリヤ人が侵入,次いでスキタイ人,トルコ人,イラン人が入った。アーリヤ人と他の民族は混血し,インダス川上流域に独特の文化を築いた。8世紀にインダス川下流域にイスラム勢力が進出,以後ガズナ朝,ゴール朝デリー・サルタナットムガル帝国など,イスラム化した王朝の支配により,現在のパキスタンからバングラデシュにかけての地が,インド亜大陸におけるイスラム教徒の中心的分布地帯となった。英国植民地時代にはヒンドゥー教徒との間に深い確執を生じ,1906年ムスリム連盟が発足した。ガンディー指導下の独立運動の中では,インド独立第一主義を確認したが,1947年ジンナーの主導でインドから分離・独立し,インドを間にはさんで東西1800kmも離れた飛地国家パキスタンが誕生した。1971年東パキスタンがバングラデシュとして独立したため,国土は西パキスタンのみとなった。内政面では民族間の対立が激しく,自治権拡大,言語などをめぐっての紛争があり,外交面では従来からのカシミール問題に加えて,核開発問題でもインドと対立している。1998年5月,同月の先行するインド核実験に対抗して地下核実験を実施した。〔政治〕 1999年10月,ムシャラフ将軍のもとで軍がクーデタを起こし,首相を解任,タラル大統領は留任したが,2001年ムシャラフは自ら大統領に就任した。2001年9月の〈米国同時多発テロ〉事件後,大統領はアフガニスタンのタリバーン勢力に対する米国の攻撃を容認・支援する政策に転じ,パキスタンの核開発に伴う経済制裁を解除された。志願兵制をとり,総兵力は61万9000人(2005)。2002年10月総選挙が行われ,1999年の軍事クーデタにより機能停止していた下院が招集され,民政復帰が実現した。しかし,政権に対して,民主化推進論者やイスラム主義強硬派から不満と不信の声が上がっており,大統領暗殺未遂事件も発覚している。2007年12月には,翌年の総選挙に向けて帰国したベーナジール・ブット(人民党初代党首の娘,イスラム諸国初の女性首相となったが国外に亡命していた)が暗殺された。2008年2月総選挙が行われ,ブットが党首を務めていた人民党が第一党となり,人民党副総裁のギラーニYousaf Raza Gillani〔1952-〕が首相に就任した。同年8月にはムシャラフが大統領の辞任を表明し,9月に行われた大統領選挙ではブットの夫で人民党共同議長を務めていたザルダリAsif Ali Zardari〔1956-〕が当選し大統領に就任した。2013年3月下院議会が任期満了のため解散。5月の総選挙の結果,ムスリム連盟ナワズ派が勝利し,6月シャリフ党首が首相に就任した。7月の大統領選では与党ムスリム連盟ナワズ派から立候補したマムンーン・フセインMamnoon Hussainが当選し9月に就任した。対インド関係では,2011年2月対話再開に合意,3月以降対話プロセスが本格的に再開されている。また,アフガニスタンとも2国関係の強化に取り組んでいる。2011年5月アメリカのオバマ大統領は,米軍特殊部隊が首都イスラマバード郊外でアル・カーイダの指導者ウサマ・ビン・ラディンを急襲,殺害したと発表。急襲について米国はパキスタン当局の事前了解は取っていない。2013年3月下院議会が任期満了で解散したことで選挙管理内閣が発足。5月に行われた総選挙では選挙による初の政権交代が実現した。ムスリム連盟ナワズ派が勝利し,6月5日シャリフ党首が首相に就任した。〔経済・産業〕 農業が主で,小麦,綿花・サトウキビなどを産する。食糧不足で小麦などの輸入が多い。綿をはじめ,タバコ,セメントなどの工業が行われ,石炭,クロム,岩塩,天然ガスの鉱産がある。経済不況や国際収支の悪化から,2008年IMF融資が決定し,IMFプログラムの下,経済改革に取り組んだものの,所期の目標を達成しないまま,2011年9月にプログラムは終了。その後も,パキスタン人民党(PPP)政権下で,経済危機は深刻化。外貨準備の減少,ルピーの減価,財政赤字の拡大傾向が続き,慢性的な電力不足も経済停滞の要因となった。2013年6月の総選挙で勝利したパキスタン・ムスリム連盟ナワズ派政権は,経済・財政の立て直しを最重要課題とし,徴税強化・電力補助金削減等の各種改革に着手。2013年9月にIMFからEFF(拡大信用供与ファシリティ)を通じた3年間で66.4億ドルの融資が承認された。パキスタン政府は,引き続きEFFの下,財政赤字削減,歳入増加,電力セクター改革,投資環境整備,国営企業改革等に取り組んでいる。
→関連項目マウドゥーディー南アジアロータス城塞

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パキスタン」の意味・わかりやすい解説

パキスタン
Pakistan

正式名称 パキスタン・イスラム共和国 Islāmī Jamhūrīya-e Pākistān。
面積 79万6096km2アザドカシミール准州など,カシミール地方のパキスタン支配地域を除く)。
人口 2億2990万7000(2021推計)。
首都 イスラマバード

インド亜大陸北西部の国。西はアフガニスタンイラン,北は中国,東はインドと国境を接し,南はアラビア海に面する。北部は北緯 37°付近まで,ヒンドゥークシ山脈カラコルム山脈,カシミール高原などの山岳地帯。中央部はインダス川流域を中心に平野。南西部はアラビア海沿岸まで広大な砂漠地帯。東縁部はタール砂漠。生活,産業の中心はインダス川流域で,古くから灌漑網が整備され,米,コムギ,綿花などが代表的農作物。1947年イギリス連邦内のイスラム教徒居住地域として東パキスタンとともにインドから分離,1956年正式に独立。1971年東パキスタンが分離独立しバングラデシュとなったため,それまでの西パキスタンのみが領土となった。インドとは,北部のカシミールの帰属をめぐって独立以来紛争を続け,1971年第3次印パ戦争後は一応の安定をみている(→カシミール紛争)。1977年7月に,それまでのズルフィカル・アリー・ブットー首相の率いる議会制政権が軍事クーデターによって倒され,軍事政権がしかれたが,1988年民政に復帰。住民はトルコ=イラン系が多く,南部にドラビダ系(→ドラビダ諸族)が居住。公用語はウルドゥー語であるが,パシュト語シンディー語パンジャブ語なども広く用いられ,英語も広く通用する。工業は綿紡績,その他の繊維工業が主。近年化学,セメント工業なども発展してきている。輸出産品は綿花,綿製品,米が主。中東への出稼ぎ労働者が近年急増している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「パキスタン」の解説

パキスタン
Pakistan

1947年にインドと分かれて独立。首都イスラマーバード。71年の第3次インド‐パキスタン戦争で東部はバングラデシュとして独立。民政と軍政を繰り返し政治は安定していない。58年には混乱した政党政治に乗じてアユーブ・ハーン最高司令官が,77年にはパキスタン人民党政権の失政に反発してハック陸軍参謀長が,クーデタで軍事政権を樹立。88年の民政移管後,議会政治の定着が期待されたが,99年にムシャラフ陸軍参謀長によるクーデタで再び軍事政権となる。73年制定の現行憲法は,85年に大幅に改正され現在に至っている。連邦制をとるが中央政府は州政府に頻繁に介入し,州自治の基盤は弱い。住民の大部分はムスリム。パンジャーブ人が66%を占め政治・経済の中枢を押える。カシュミール問題を抱え,安全保障上インドに対抗せざるを得ないことから,98年のインドの核実験に対抗し即核実験を行い,欧米や日本から経済制裁を課された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「パキスタン」の解説

パキスタン
Pakistan

西南アジア,インダス川流域のほとんどを占める共和国。首都イスラマバード
清浄国の意。インドのイスラーム教徒は1906年全インド−ムスリム連盟を組織し,国民会議派と抗争を続けたが,40年ラホール大会でヒンドゥー教徒から分離してパキスタンの独立を決議し,ジンナーの指導下に47年分離独立に成功した。1956年にはパキスタン−イスラーム共和国と改称。カシミール問題でインド連邦と対立し,65年には18年ぶりに全面的武力戦争となったが,ソ連の仲介で停戦し,その後インドに対抗するため中国に接近した。1971年東パキスタンがインドの援助により,バングラデシュ人民共和国として分離独立した。1980年代後半からはムスリム連盟と,ブット率いる人民党が政権争いをくりかえしたが,98年インドに対抗して核実験を行い,核保有国を宣言した。これに対し,先進諸国と国際金融機関は経済制裁を開始した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android