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道光帝 どうこうていDao-guang-di; Tao-kuang-ti

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

道光帝
どうこうてい
Dao-guang-di; Tao-kuang-ti

[生]乾隆47(1782).8.10. 北京
[没]道光30(1850).1.14. 北京
中国,清朝の第8代皇帝 (在位 1820~50) 。名は旻寧。諡は成皇帝。廟号は宣宗。年号は道光。嘉慶帝の次子。天理教の乱の平定で智親王に封じられ,嘉慶帝の皇太子密建法により即位。鉱山開発の奨励など混乱した財政の建直しに努力したが,イギリスアヘン貿易とそれに伴う銀の国外流出と経済の破綻は著しく,「反清復明」を号する秘密結社の活動と相まって社会不安が増大した。このため林則徐を中心としてアヘン取締りの強化を実施したが,それはアヘン戦争とその敗北,南京条約による開国へといたり,これらは中国植民地化第一歩であり,その末年には太平天国の乱もあって混乱が激化した時代であった。

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デジタル大辞泉の解説

どうこう‐てい〔ダウクワウ‐〕【道光帝】

[1782~1850]中国、の第8代皇帝。在位1820~1850。名は旻寧(びんねい)。廟号(びょうごう)は宣宗。アヘン戦争に敗れ、欧米諸国に対して開国するに至った。

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世界大百科事典 第2版の解説

どうこうてい【道光帝 Dào guāng dì】

1782‐1850
中国,清朝第8代の皇帝。在位1820‐50年。名は旻寧(びんねい)。廟号は宣宗。陶澍(とうじゆ)(1778‐1839)の塩政改革によって財政の立て直しをはかったが,時すでに遅く,官場の腐敗や満州八旗の堕落,銀価の高騰などによって,清王朝の内部矛盾をますます激化させた。さらにアヘン戦争の敗北と屈辱的な南京条約の締結は,外国列強の侵略を招き,中国の半植民地化への道を開くものとなった。【小野 和子】

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大辞林 第三版の解説

どうこうてい【道光帝】

1782~1850) 中国、清の第八代皇帝(在位1820~1850)。名は旻寧びんねい。廟号びようごうは宣宗。アヘン戦争に敗れ、西洋諸国に対し開国を余儀なくされた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

道光帝
どうこうてい
(1782―1850)

中国、清(しん)朝第8代の皇帝(在位1820~50)。名は旻寧(びんねい)。諡(おくりな)は成帝。廟号(びょうごう)は宣宗。年号によって道光帝とよばれる。嘉慶(かけい)帝の第2子で、生母は喜塔臘(ヒタラ)氏。1813年の天理教徒の紫禁城侵入を破り智順王になった。即位ののち、鉱山開発の奨励など、窮乏した財政の立て直しに努力したが、積年の経済窮乏とイギリスとのアヘン貿易により26年に広東(カントン)貿易が入超となり、中国から銀が流出し始めたため、日常通用の銅銭との比価が高騰し、税の銀納を義務づけられていた農民はますます困窮し、国庫収入にも影響を与えた。清朝はアヘン貿易を禁止したが、イギリス政府、商人、地方貿易商らは自由貿易とアヘンの公認を求め、禁止令は実効がなかった。39年に林則徐(りんそくじょ)がアヘン没収を行ったことから40年にアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)、イギリス海軍が中国各地を占領した。この結果、42年南京(ナンキン)条約が批准されて清朝は開国するに至ったが、これが中国の植民地化の第一歩となった。また、社会不安の増大は、道光末年からの太平天国軍の蜂起(ほうき)を引き起こした。[細谷良夫]

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