中国清代,華北に蜂起した天理教徒の乱。天理教は白蓮教,弘陽教を混合した民間宗教であるが,八卦(はつか)の名により教徒を分属組織したことから八卦教ともいう。《三仏応劫書》を経典とし末劫思想を説き,将来される白洋劫には教徒のみが殺戮を免れるとし,銭糧の提供者には土地,官職を約束した。教団内には拳棒を習う武術集団もあり,直隷の書吏出身の林清を天王とし,河南の木工李文成を人王とし,南北呼応して蜂起することを密約,星占いにより1813年(嘉慶18)9月15日に決行することとした。しかし計画が事前に漏れ,李文成が河南滑県知事によって逮捕されると,奪還すべく教徒3000人が蜂起した。山東,直隷の教徒も相次ぎ起兵するなか,林清は予定どおり200余名を北京城に潜入させ,その一部は宦官の手引きにより宮中に突入した。皇帝は不在であったが,皇次子(道光帝)みずから発砲応戦するという前代未聞の事件となった。2日後に林清は捕らえられ,滑県によった李文成も11月に自殺,2万人が官軍に虐殺された。李文成は李自成の転世と称し,〈大明天順〉の旗をかかげるなど,農民反乱の色彩を濃厚にたたえていた。
執筆者:森 紀子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、清(しん)朝の1813年、華北の直隷、江南両省を中心に起こった宗教結社の反乱。天理教は栄華会、八卦(はっけ)教などともいい、白蓮(びゃくれん)教系とみなされている。中心的指導者は直隷省大興県の林清と河南省滑(かつ)県の李(り)文成で、林清の配下には太監(宦官(かんがん))、王府包衣、雇工など多種の分子を含んでいたが、李文成配下の多くは貧農であった。乱は9月15日午(うま)の刻を期に起こす予定であった。しかし、河南では、李文成らが9月5日に滑県知県に捕らえられるという事件によって7日に蜂起(ほうき)し、滑県城を急襲した。救出された李文成は滑県城で師府を開いたが、清側の攻撃に敗れ、李文成は敗死し、3か月で鎮圧された。一方の林清は予定どおり9月15日に太監の手引きで紫禁城に侵入したが、失敗し、約束の李文成からの援兵もなく、たちまち鎮圧され、林清らは極刑に処せられた。乱は短期間で平定されたが、乱徒が首都で蜂起し、禁中に入った衝撃は大きく、清廷を震駭(しんがい)させた。
[石橋崇雄]
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