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嘉慶帝 かけいていJia-qing-di; Chia-ch`ing-ti

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

嘉慶帝
かけいてい
Jia-qing-di; Chia-ch`ing-ti

[生]乾隆25(1760).10.6. 北京
[没]嘉慶25(1820).7.25. 熱河
中国,清朝の第7代皇帝 (在位 1796~1820) 。初名は永 琰,のちにぎょう 琰 (ぎょうえん) 。諡は睿皇帝。廟号は仁宗。乾隆帝の第 15子で嘉慶1 (1796) 年に乾隆帝の禅譲で即位したが,同4年までは上皇の治政下にあった。親政と同時に父帝の寵臣で専横な和しんを捕えて自殺させ,綱紀の粛正に努めた。しかし,即位の年に白蓮教徒の乱 (→白蓮教 ) が起き,続いて海寇,艇盗の乱や同 18年の天理教の乱では一部が宮城内に乱入するなど乾隆朝末期から現れた社会の混乱が一挙に表面化した。また外国の進出,すなわちアヘンの持込みと銀の流出も始り,乾隆朝にいたる安定期から近代動乱期への転換の時代であった。

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世界大百科事典 第2版の解説

かけいてい【嘉慶帝 Jiā qìng dì】

1760‐1820
中国,朝第7代皇帝。在位1796‐1820年。乾隆帝は在位60年を機に,帝位を第15子顒琰(ぎようえん)に譲り,1796年元旦,嘉慶と改元した。当初3年間は太上皇帝の訓政であったが,太上皇帝が崩ずるや,嘉慶帝は先帝の寵臣として権勢を振るっていた和珅(わしん)を自殺せしめ,政治の刷新をはかった。すでに96年から四川・陝西・湖北一帯に白蓮教の大乱が発していたが,堅壁清野の策により9年がかりで鎮定した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

嘉慶帝
かけいてい
(1760―1820)

中国、清(しん)朝第7代の皇帝(在位1796~1820)。乾隆(けんりゅう)帝の第15子。名は(ぎょうえん)、諡(おくりな)は睿(えい)皇帝、廟号(びょうごう)は仁宗(じんそう)。宗教迷信を退け、実事求是をモットーとした。廉潔で職務に忠実な部類に属する皇帝であったが、前代の悪政とそれに起因する諸反乱に翻弄(ほんろう)され、承徳(河北省北部)の避暑山荘で病没した。即位の年に白蓮教(びゃくれんきょう)の大乱が起こった。即位後3年間は父帝の執政が続いたが、すでに耄碌(もうろく)がひどく、実権は寵臣(ちょうしん)(わしん)の手に握られていた。父帝の死後、親政が始まると、まず乾隆後半期からの諸悪の根源であった和に自殺を命じ、官・軍の綱紀を粛正し、白蓮教軍の孤立化政策を推進した。これらの処置が効を奏し、1805年に大乱はようやく終結した。しかし、同年末から2年間は四川(しせん)、陝西(せんせい)両省で兵士の反乱が相次ぎ、やがて1813年に華北の天理教の乱、陝西省岐山(きざん)県の木(もくしょう)の乱が起こった。またこの間、福建、広東(カントン)方面では海賊が横行し(艇盗(ていとう)の乱)、反乱対策に忙殺された。一方、和が河川工事を怠った報いもあって、黄河がしきりに氾濫(はんらん)し、治水費も膨張した。結局、清朝衰亡の転換点にたたされた悲運の皇帝であった。[安野省三]

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