日本大百科全書(ニッポニカ) 「嘉慶帝」の意味・わかりやすい解説
嘉慶帝
かけいてい
(1760―1820)
中国、清(しん)朝第7代の皇帝(在位1796~1820)。乾隆(けんりゅう)帝の第15子。名は顒琰(ぎょうえん)、諡(おくりな)は睿(えい)皇帝、廟号(びょうごう)は仁宗(じんそう)。宗教迷信を退け、実事求是をモットーとした。廉潔で職務に忠実な部類に属する皇帝であったが、前代の悪政とそれに起因する諸反乱に翻弄(ほんろう)され、承徳(河北省北部)の避暑山荘で病没した。即位の年に白蓮教(びゃくれんきょう)の大乱が起こった。即位後3年間は父帝の執政が続いたが、すでに耄碌(もうろく)がひどく、実権は寵臣(ちょうしん)和珅(わしん)の手に握られていた。父帝の死後、親政が始まると、まず乾隆後半期からの諸悪の根源であった和珅に自殺を命じ、官・軍の綱紀を粛正し、白蓮教軍の孤立化政策を推進した。これらの処置が効を奏し、1805年に大乱はようやく終結した。しかし、同年末から2年間は四川(しせん)、陝西(せんせい)両省で兵士の反乱が相次ぎ、やがて1813年に華北の天理教の乱、陝西省岐山(きざん)県の木(もくしょう)の乱が起こった。またこの間、福建、広東(カントン)方面では海賊が横行し(艇盗(ていとう)の乱)、反乱対策に忙殺された。一方、和珅が河川工事を怠った報いもあって、黄河がしきりに氾濫(はんらん)し、治水費も膨張した。結局、清朝衰亡の転換点にたたされた悲運の皇帝であった。
[安野省三]