1838年(天保9)から1887年(明治20)にかけて大和(やまと)国(奈良県)の農家の主婦であった中山みきの説いた人類創造神(「親神(おやがみ)」「天理王命(おうのみこと)」と呼称)の教えに基づいて成立した宗教。教祖中山みきは1838年10月26日天啓により「神のやしろ」(神意伝達者)となり、以来50年間、嘲笑(ちょうしょう)や迫害のなかで神意を説き続けた。みきの教えによれば、親神は人間の「陽気ぐらし」を楽しみに人間世界を創造したが、人間は心の自由のままに神意に背き、自らに苦悩を招いてきた。その人間を救(たす)け上げるために親神が現れ、人間創造の「元(もと)の理」を明かし、その「元」へ帰るための「かぐらづとめ」を教え、身上(みじょう)(病苦)救けのための「さづけの理」を渡し、世界を「陽気ぐらし」の世に立て替える段取りを進めるという。みきの没後は高弟飯降伊蔵(いぶりいぞう)(1833―1907)が1907年(明治40)まで神言を伝える。その間に、1888年4月神道(しんとう)直轄天理教会として認可され、1908年には教派神道の一派として独立を公認される。第二次世界大戦後、ようやく信教の自由を得、2代真柱(しんばしら)中山正善(しょうぜん)(1905―1967)の指導のもと、それまで抑えられていた教祖の本来の教えが表に出され、教団は教派神道の枠から離脱した。天理教の聖典は、みきの直筆である『おふでさき』と『みかぐらうた』、およびみきと伊蔵を通しての神言の筆録『おさしづ』の三つである。本部は奈良県天理市三島にあり、神殿の中央は人間創造の「元のぢば」として四方から礼拝する形になっており、教団の経営する図書館、参考館、病院などの諸施設、大学・高校などの学園も整備されている。教団は本部を頂点として、大教会―分教会―布教所などに組織されている。教会数1万6358、布教所数1万6908、教師数14万8141、信者数116万9275(『宗教年鑑』平成26年版)。柔道、野球、ホッケーなどをはじめスポーツ活動も盛んである。
[松本 滋]
『松本滋著『天理教の信仰と思想』全3巻(1983・天理教道友社)』▽『天理教教会本部編『天理教教典』改訂版(1984・天理教道友社)』▽『寺町武夫著『天理教教理の21世紀的解釈――“陽気ぐらし”のしん(深・真・神)意を探る』(1991・善本社)』▽『藪景三著『天理教教祖(おやさま)中山みき』(1995・鷹書房弓プレス)』▽『深谷忠政著『天理教教祖論序説』(1996・天理教道友社)』▽『大谷渡著『天理教の史的研究』(1996・東方出版)』▽『宮田元著『神と人間のつながり――世界をどう見るか』(1996・天理教道友社)』▽『天理大学附属おやさと研究所編『天理教事典』(1997・天理教道友社)』▽『木下民善著『「共生」へのライフスタイル――天理教教理からの序説』(1998・善本社)』▽『小滝透著『おやさま――天理教教祖中山みき伝』(2000・奈良新聞社)』▽『矢持辰三著『天理教の人生観』(2000・天理教道友社)』
習合神道系の創唱宗教。1838年(天保9)大和国山辺郡庄屋敷村(現,奈良県天理市)で,地主の主婦中山みき(1798-1887)が開教した。みきは浄土宗をあつく信じていたが,41歳のとき,長男の病気を治すために招いた山伏の加持台をつとめ,神がかりしてみずから〈天の将軍〉〈元の神,実の神〉〈大神宮〉と名のり,〈三千世界のたすけ〉のため天降ったと宣言した。開教後,中山家は没落の一途をたどったが,みきは近隣の農民,職人らに安産と病気なおしのたすけを通じて,親神〈てんりんおう〉の信仰を広めるようになった。幕末,みきは寺院,神社,山伏などの既成宗教からの圧迫を受けたが,これに対抗して神道化を進め,1867年(慶応3)神道家元の吉田家から〈天輪王明神〉として公認され,教義をよんだ数え歌《みかぐらうた》をつくった。明治維新後,教線は河内から大阪に及び,病気なおしなどによる入信者が急増して,各地で講社が育った。69年(明治2)みきは教義歌《おふでさき》の述作を始めた。天理教の布教活動は,政府の国民教化政策の展開によってはげしい禁圧を受けたが,みきと信者たちの根づよい抵抗がつづいた。82年最高の礼拝対象として建造中の石造の〈かんろだい〉が警察によって破壊された。みきは権力者を〈高山〉,民衆を〈谷底〉と呼んで,高山の没落と谷底の救済を説き,独自の創造神話《こふき(《泥海古記》)》をまとめた。前後18回にわたって検挙・勾留されたが,信仰は法律にも政治支配にも優越すると教えて,政府に妥協屈従することを許さなかった。
87年みきが没し,大工出身の飯降(いぶり)伊蔵(1833-1907)が〈本席〉となり,神がかりして〈おさしづ〉を出し,教団を指導した。88年本部は神道本局の所属教会となり,日清・日露戦争では国策に積極的に奉仕して,1908年教派神道の一派として独立を公認された。公認の前年,本席が没し,その後は中山家の当主が〈真柱(しんばしら)〉として教団を統率して,現在に及んでいる。独立後の天理教は,第1次大戦中から戦後,昭和初期の2回にわたって農民・市民の間でめざましい発展をとげ,海外にも進出し,日本有数の大教団となり,天理大学の経営,その管理下に図書館・参考館をもつなど文化施設にも力を入れている。この教勢発展には,真柱の権威を頂点とする大教会,分教会,宣教所の整然たる中央集権組織,じぶんの心以外のすべてを神からの借りもの,神の貸しものとする信者の物心両面にわたる全面的奉仕,単独布教と呼ばれる献身的な布教が大きな役割を果たした。
天理教の教義は,天理王(てんりおう)命を一神教的な親神とする。神が人間を創造した聖地が奈良県天理市の中山家の地(〈ぢば〉〈おやさと〉)であり,神は,時節が来て,教祖を神のやしろとして世界の救済を行う。神はすべての人間にゆたかで平和で幸福な〈陽気ぐらし〉を勧め,人間は欲などの悪い心(八つの埃)を捨て,みずからが神の貸しもの,神からの借りものであることを知り,神への奉仕にはげむことによって幸福が得られるとする。天理教は,封建社会の解体期に成立した人間本位で現世中心の民衆宗教であり,教義には,仏教,習合神道,心学など既成の教説の影響がみられ,世直しへの志向が著しい。明治20年代以後,教団は公認運動をつうじて政府への奉仕と迎合を強め,本来の信仰に国家神道的教義を,矛盾をはらんだまま結びつけた。開教以来の民衆的伝統と天皇崇拝・国家主義的教義との二重性は,第2次大戦の敗戦まで天理教の歩みを規定した。
現行の《天理教教典》の原典は,教祖の《おふでさき》《みかぐらうた》,教祖と本席の《おさしづ》などである。また明治以来,創造神話を記した《こふき》は,その存在じたいを〈不敬〉として追及され,1938年教説から削除された。開教期の天理教の教義には,権力を高山,民衆を谷底と呼ぶ権力への強い抵抗と世直しの主張,農村の共同体意識に立つ平和主義,平等観,夫婦中心の家族観,ヒューマニズムなど,変革期の民衆の思想が反映していた。権力への迎合が明らかになってゆく過程でつくられた1903年のいわゆる《明治教典》とファシズムの時期の革新教義は,民衆宗教としての独自の教義からかけはなれた内容で,天皇崇拝と国家主義を強調していた。この人為的な教義に反発する民衆的伝統は,信者の間で底流として生きつづけ,第2次大戦後,教祖に帰る復元運動が展開された。なお,分派にほんみち,大道教,日月(ひかわ)教などがある。
執筆者:村上 重良
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(岩井洋 関西国際大学教授 / 2007年)
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中山みきを開祖とする新興宗教。神道十三派の一つ。みきは1838年(天保9)神がかり状態となり,3日3晩続いて「月日(神)のやしろ」となったのを契機に,53年(嘉永6)頃から布教を開始。64年(元治元)布教の中核として「つとめ場所」が建設された。74年(明治7)から官憲の弾圧をうけ,布教への干渉やみきの留置などが行われたが,1908年独立一派として公認された。人間は平等で助け合いにより創造がはたされるとし,みき執筆の「おふでさき」が教典的性格をもち,「てをどり」などわかりやすいかたちで布教を行う。天理市に本部をおき,現在は世界各国に教会がある。
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…人口7万4188(1995)。天理教の教会本部が置かれた三島から川原城にかけては多数の母屋(信徒宿泊所),大学,図書館,病院といった教会関係施設が建ち並び,年間100万人をこえる信徒が訪れるなど,宗教都市的色彩が濃厚である。また,天理駅(JR桜井線,近鉄天理線)と教会本部を結ぶ街路沿いには商店街がひらけ,天理駅一帯は市の中心地として発達している。…
…天理教教祖。大和国(奈良県)山辺郡三昧田村の地主の長女に生まれ,13歳で丹波市(現,天理市)近郊の庄屋敷村の中山家に嫁した。…
…天理教の地方幹部大西愛治郎(1881‐1958)が1913年に開教した天理教系の新宗教。大西は奈良県宇陀郡宇太村に生まれ,奈良師範(現,奈良教育大学)在学中に母の難疾から天理教に入信,1900年学業を放棄して単独布教に出発,群馬県安中で成果をあげ,04年より山口県の教会復興にあたった。…
※「天理教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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