日本歴史地名大系 「遠田村」の解説 遠田村とおだむら 島根県:益田市遠田村[現在地名]益田市遠田町遠田川下流の河口流域一帯に位置し、北は津田(つだ)村、西は久城(くしろ)村。地名は益田本郷から遠い里の意という(石見八重葎)。応安四年(一三七一)六月二四日の益田祥兼請文(益田家文書)に「遠田村号弥富名」とみえ、益田兼長の後家尼阿忍が正和五年(一三一六)二月二一日に三人の孫子に譲ったものの一つで、譲状に従って知行してきたのを、永安祥永が横領したと主張している。現在の遠田町には益田兼弘の弟兼種が弥富(やとみ)名の一部を与えられて拠点を構えていたと推定され、兼種は遠田氏を名乗った(御神本系図)。江戸時代の支配の変遷は益田村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に高四八五石余とあり、年貢は田方二六五石余・畑方四九石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では高四八五石余、免五ツ一分。元和五年の古田領小物成帳では塩浜役銀三〇匁がみえる。安永六年(一七七七)の村明細帳(右田家文書)には田九一町余・畑一四町余、上納半紙六三丸二〇束、家数一七一・人口一千一八九とある。 遠田村とおだむら 兵庫県:津名郡一宮町遠田村[現在地名]一宮町遠田尾崎(おさき)村の南にあり、東山寺(とうさんじ)山系の南西に、東から西へ傾斜して広がる。西は北山(きたやま)村・下川井(しもがわい)村。南東から北西へ新(しん)川が流れる。もともとは萩の原(はぎのはら)とよばれる荒野であったが、暦応年間(一三三八―四二)に奥州遠田郡(現宮城県)の人小県馬之丞が淡路に来島し、当地を開いたと伝える(「味地草」・小県家文書)。小県氏は近世には庄屋役を世襲した。村域は口遠田(くちとおだ)・萩・高瀬(たかせ)・後(うしろ)の四地区に分れる。正保国絵図に村名がみえ、高六八九石余。 遠田村とおだむら 奈良県:天理市柳本地区遠田村[現在地名]天理市遠田町檜垣(ひがい)村西部に位置。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に遠田庄がみえ、「多聞院日記」天正一二年(一五八四)六月二九日の条に「昨日一時余大雨下、南ハ箸中ヨリ丹波市ノ南口、西ハヒセン(備前)・井トタウ(井戸堂)・遠田・ヒカイ(檜垣)・キシタ(岸田)・ツシ(辻)・大田・マメコシ(大豆越)・柳本・大市クワ(鍬)ノタケホト畠ニシム」とある。慶長郷帳には「当田村」とみえ、村高五二〇・六六石。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by