益田村(読み)ますだむら

日本歴史地名大系 「益田村」の解説

益田村
ますだむら

[現在地名]原町市益田

ほぼ東流する太田おおた川の南岸に位置し、東はたか村。西は南北に走る浜街道を境に矢川原やがわら村、南は丘陵を境に鶴谷つるがい村に接する。「奥相志」に「もと院内邑、後井内に作るといへり。往時人口減じて村落甚だ衰へたり。誰か言ふ、邑名無居いないの訓ありて不吉なりと。故に益田村と改むといふ」とあり、天明年間(一七八一―八九)以前に益田と改称、享和三年(一八〇三)益田村と郷村簿に記して幕府に申達したとされる。中世には院内・伊内と記し、「いんない」とも称された。

永仁二年(一二九四)八月二二日の関東下知状(相馬岡田文書)に「院内」とみえ、相馬胤村から次男胤顕(相馬岡田氏の祖)に相伝された大三賀おおみか(大甕)などとともに胤顕の子胤盛に安堵されている。建武二年(一三三五)一二月二〇日、胤盛の子胤康は「ゐんない」などを子息胤家に譲っているが(「相馬胤康譲状」同文書)、これは胤康が建武政権に反旗を翻した足利尊氏方の斯波家長に属して合戦に赴くためであろう。


益田村
ますだむら

[現在地名]益田市本町ほんまち七尾町ななおちよう土井町どいちよう幸町さいわいちよう

益田平野の南東端、益田川の谷口に位置する。東は大谷おおたに村、南はひだりやま村、西は上吉田かみよしだ村、北は上本郷かみほんごう村。「石見八重葎」は真田・舛田ともいい、良田の真砂田の音韻転訛に由来するという。一名地頭所じとうしよ村。江戸時代の支配の変遷は幕府領から元和五年(一六一九)浜田藩領となる。同年の古田領郷帳に地頭所村とみえ、高一〇九石余、年貢は一〇七石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳でも地頭所村とあり、高一〇九石余、免六ツ九分五朱。


益田村
ますだむら

[現在地名]びわ町益田

安養寺あんようじ村の南にあり、西は湖に面する。同村境を益田川が流れ、丁野木ちようのぎ川と合流。「和名抄」記載の浅井郡益田郷の遺称地とされ、中世は益田北郷・益田南郷などとみえる。史料上は増田とも。豊臣秀吉に仕え五奉行の一人として民政に優れた増田長盛は当地出身ともいうが、尾張生れの定説を修正する文献は知られない。寛永石高帳に高七一四石余とある。領主の変遷は細江ほそえ村に同じ。元禄八年大洞弁天寄進帳に男一九七・女二二五、寺社方二五とある。北国脇往還伊部いべ宿(現湖北町)の定助郷を勤めたという(東浅井郡志)


益田村
ますだむら

[現在地名]河浦町今田いまだ

東はいま村、西は壱町田いつちようだ村に接する。「国志草稿」に「当村ニ大川二筋」と記される今田川と一町田いつちようだ川の合流地付近にある。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳に高一一六石余とある。壱町田組に属し、庄屋は池田家。万治二年(一六五九)石高半減により七七石八斗余となった(天草風土考)。「国志草稿」に竈数一一・男女数一二五とある。文政(一八一八―三〇)頃は高八二石七斗余(うち新田畑四石八斗余)、家数二七・人数一七二で、小規模な村であった。


益田村
ますだむら

[現在地名]岡山市吉宗よしむね

栢谷かいだに村の北、ささの北に広がる盆地の北端山寄りに位置し、津山往来沿いに南北に細長い集落を形成する。城下から二里の一里塚があった(吉備温故秘録)。西側山麓沿いには横山よこやま古墳群(古墳後期)があり、同古墳群の上の山腹尾根上には二ヵ所、磐座を伴う祭祀跡が認められる。寛永備前国絵図には吉宗村とみえ、高二八六石余。徳川吉宗が将軍職に就任した享保元年(一七一六)将軍の名をはばかって改名したという(撮要録・吉備温故秘録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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