1927年(昭和2)から行われている、社会人野球最高峰の全国大会。
[日本野球連盟]
発案者は東京日日新聞(現毎日新聞)政治部の記者島崎新太郎で、(1)各地の実業団(会社)チームやクラブチームが充実するにつれてみなぎってきた試合欲を満たすため、(2)当時、実力・人気とも最高であった東京六大学野球の花形選手が学校を卒業すると、もうそのプレーに接することができず、寂しがっていたファンのため、に企画された。これを受け、東京日日新聞運動部の記者橋戸信(まこと)(頑鉄(がんてつ))は1年余り奔走(ほんそう)して同大会を実現させた。「都市対抗野球」の名称は、橋戸の友人小西得郎が「アメリカ大リーグのように都市を背景にした対抗大会にしたい」と提案して命名された。優勝旗をデザインしたのは小杉未醒(みせい)(のち放庵(ほうあん))で、バビロンのレリーフにヒントを得て強者を象徴する黒獅子(くろじし)を描いたところから「黒獅子旗」とよぶことになった。
第1回大会は1927年8月3日、神宮球場で開幕した。代表12チームは推薦出場で、地区予選が行われるようになったのは第2回大会からである。第1回から3回までは、当時日本領であった大連(だいれん)市の満州倶楽部(くらぶ)と大連実業が優勝した。これに国内のチームは奮起し、とくに神宮球場の地元の東京クラブは第4、5回大会を連覇、7、9回大会にも優勝した。第9回大会(1935)まではプロ野球はなく、有名選手が多数出場する同大会は毎回盛況でファンを熱狂させた。第10回大会を前に都市対抗野球の創始者である橋戸が死去したことから、その功績を長くたたえるため、第7回から設けられていた最優秀選手賞を「橋戸賞」とした。最初の受賞者は門司(もじ)鉄道局の捕手井野川利春である。第12回大会(1938)から、舞台が神宮球場から後楽園球場へと移り、クラブチームにかわって会社チームが主流となった。
[日本野球連盟]
第二次世界大戦のため第16回大会(1942)を最後に3年間中断されたが、1946年8月に復活、第17回大会が行われた。第18回大会には、昭和天皇、香淳(こうじゅん)皇后が来場、グラウンドに立って選手宣誓を受け、開幕試合を見学した(第40回大会にも来場)。なお、この大会から敢闘賞として「久慈(くじ)賞」が設けられた。函館太洋(はこだてオーシャン)倶楽部で活躍した捕手久慈次郎の闘志あふれるプレーをたたえたもので、優勝した大日本土木の投手中原宏が受賞した。なお久慈賞は、翌19回大会からは準優勝チームの選手から選ばれるようになった。
第20回大会(1949)から日本社会人野球協会(現日本野球連盟)と毎日新聞社の共催となり、大会独特の補強選手制度が設けられた。地区の代表チームは同一地区の予選敗退チームのなかから最大5選手を補強することができる制度で、21回大会から採用された。第27回大会(1956)では、補強選手制度の発案など創設時から大会育成に尽くした毎日新聞運動部の記者小野三千麿(みちまろ)の努力をたたえる「小野賞」が制定された。大会を通じてすばらしい活躍をした選手個人、またはチームに贈られる賞で、初の受賞は日鉱日立チームである。
第59回大会(1988)から舞台が後楽園球場から東京ドームへと移り、2001年(平成13)の第72回大会からは「黒獅子エンブレム」が優勝チームに贈られることになった。優勝チームの選手は翌年の本大会までの1年間、ユニホームにこのエンブレムをつけて試合ができるというものである。
なお、本大会の特色にあげられるのは華やかな応援合戦である。第二次世界大戦後、会社チームが多くなって生まれた大会の名物で、各チームは郷土色豊かな応援を繰り広げている。第34回大会(1963)からは応援団コンクールが行われている。
[日本野球連盟]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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