プロ野球選手(捕手:右投右打)、監督。6月29日、京都府生まれ。捕手という重労働を強いられるポジションでありながら、実働26年で歴代2位(2015年時点)の通算3017試合に出場、ホームランも王貞治(さだはる)に次ぐ歴代2位の657本を数え、屈指の強打を誇った。1954年(昭和29)、峰山高からテスト生として南海ホークス(現、福岡ソフトバンクホークス)に入団、1957年には早くも本塁打王を獲得し、以降、1961年からの8年連続を含め、9回も本塁打王になった。1962年から1967年までは打点王も手にしたため6年連続で二冠王となり、さらに1965年には首位打者のタイトルも獲得し、戦後初の三冠王となった。1970年からは監督を兼任、捕手で培った野球に対する深い洞察力は監督としての采配(さいはい)に生かされ、1973年にはリーグ優勝を果たした。1977年に監督を解任され、その後は「生涯一捕手」として、1978年ロッテオリオンズ(現、千葉ロッテマリーンズ)、1979年西武ライオンズ(現、埼玉西武ライオンズ)に移籍し、1980年に現役を引退した。絶大な人気を誇る長嶋茂雄(しげお)をヒマワリに例え、自らをツキミソウ(月見草)になぞらえた話は有名である。1990年(平成2)にはヤクルトスワローズ(現、東京ヤクルトスワローズ)の監督に就任、データ重視の「ID野球」を確立させ、リーグを4回制覇し、うち3回は日本一の座についた。1999年から2001年まで阪神タイガースの監督を務めた。
[出村義和 2016年9月16日]
2002年から2005年まで社会人野球のシダックスの監督としてアマチュアのチームを率いたあと、2006年に東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任、5年ぶりにプロ球界に復帰した。チームは2年連続の最下位となったが、翌2007年には4位に浮上させた。2009年退任。
選手としての26年間の通算成績は、出場試合3017、安打2901、打率2割7分7厘、本塁打657、打点1988。獲得したおもなタイトルは、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、三冠王1回、最優秀選手(MVP)5回(うち最高殊勲選手1回)、ベストナイン19回、ダイヤモンドグラブ賞(現、ゴールデン・グラブ賞)1回。監督としての通算成績は、3204試合、1565勝1563敗76分け、勝率5割、リーグ優勝5回、日本シリーズ優勝3回。1989年(平成1)に野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。
[編集部 2016年9月16日]
『長沼石根著『月見草の唄――野村克也物語』(1981・朝日新聞社)』▽『野村克也著『一流の条件――プロ野球野村克也の目』(朝日文庫)』
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(2020-2-13)
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