プロ野球選手(内野手:右投右打)、監督。7月27日、広島県生まれ。旧姓山本。広島商では1931年(昭和6)春の選抜大会で優勝した。法政大学では好守の三塁手として注目され、闘志あふれるプレーぶりと、強いリーダーシップでチームをまとめる能力は当時から高く評価されていた。1939年に南海(現、福岡ソフトバンクホークス)へ入団すると1年目からいきなり主将に任命され、本塁打王を獲得するなどしてチームを牽引(けんいん)、期待にこたえた。翌1940年から従軍したが、1946年に近畿グレートリング(南海が名称変更、1947年南海ホークスとなる)の監督兼任で復帰した。打点王となってブランクを感じさせなかったばかりか、チームを優勝に導き最高殊勲選手(現、最優秀選手)に選ばれた。翌1948年にも優勝して最高殊勲選手となった。2リーグ分立後の1951年からパシフィック・リーグ3連覇を遂げ、1951年には3回目の最高殊勲選手となったが、1952年限りで現役を引退、監督業に専念した。しかし、日本シリーズでは読売ジャイアンツ(巨人)になかなか勝つことができず、5回目の挑戦となった1959年のシリーズでエース杉浦忠(ただし)を4連投させて、宿敵巨人に4連勝し、ついに日本一の座をついた。大阪市内で行われた祝賀行事は「涙の御堂筋パレード」としていまも語り継がれている。1964年からはふたたびパ・リーグ3連覇を達成、1964年には日本シリーズで阪神タイガースを破り、2回目の日本一となった。1968年に勇退。通算1773勝は監督最多勝利(2015年時点)である。
[出村義和 2016年9月16日]
選手としての実働8年間の通算成績は、出場試合754、安打790、打率2割9分5厘、本塁打61、打点467。獲得したおもなタイトルは、本塁打王1回、打点王1回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)3回、ベストナイン1回。監督としての通算成績(23年)は、2994試合、1773勝1140敗81分け、勝率6割9厘、リーグ優勝11回(うち1リーグ時代は2回)、日本シリーズ優勝2回。1965年(昭和40)に野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。
[編集部 2016年9月16日]
『鶴岡一人著『鶴岡一人の栄光と血涙のプロ野球史』(1977・恒文社)』
昭和期のプロ野球選手,プロ野球監督
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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