野根郷(読み)のねごう

日本歴史地名大系 「野根郷」の解説

野根郷
のねごう

現東洋町のうち、北東部の甲浦かんのうら白浜しらはま河内かわうち以外を郷域とし、「野禰」とも記す。古くは生見いくみも郷内であったが、江戸時代後期に離れた。郷内の集落は東南流する野根川とその支流域、および相間あいま川河口に点在。海岸沿いに南下する土佐街道(東街道)は野根川河口付近で西に折れ、野根山を越えて奈半利なはり(現奈半利町)に通じる。元禄地払帳によれば野根本村・なか村・中島なかしま葛原くずはら内田うちだ成川なるかわ棚越たなごえ川口かわぐち大戸おおと真砂子瀬まなごせが一括され、別に生見村と岩佐いわさ(現北川村)が「野根ノ内」とある。近世史料で野根郷を野根村と記す場合も多く、野根本村をあらわす野根村と混同されがちである。

〔古代・中世〕

養老二年(七一八)土佐への官道が伊予経由から阿波経由に変更されたが(続日本紀)、阿波経由の官道は野根山越であった可能性が大きく、野根郷の地も交通の要衝とされ、早くから開けていたと考えられる。

中世中期以降安芸郡東部に蟠居した豪族惟宗氏の支族が野根にも住み、野根・甲浦で勢力を振るい野根惟宗氏とよばれた。野根惟宗氏は延文五年(一三六〇)七月二二日付の池山若一王子御願請之御時日記(蠧簡集)末尾に「地頭散位惟宗朝臣長盛」とあるのをはじめ、長享三年(一四八九)野根八幡宮棟札に長親、文亀元年(一五〇一)池山寺棟札に益長、享禄二年(一五二九)同じく池山寺棟札に国長、永禄九年(一五六六)の野根八幡宮棟札に国長・長俊が名を連ねる。長盛は「蠧簡集竹頭」の編者の聞書によれば内田の城にいたという。最後の国長は野根・甲浦を併せ支配し、いけの城にいたが、天正三年(一五七五)長宗我部元親の部将桑名丹後守の侵攻に遭いあっけなく落城、甲浦を経て阿波へ逃れた(元親記)。野根・甲浦を預かった丹後守の子将監は初め野根の土居に入り、やがて甲浦に移った。

天正一七年の野禰村地検帳では、一部散田を除いてほとんどが長宗我部家臣団の給地に分与され、なかでも桑名将監の給地が多い。これは惟宗一族が野根を放棄した結果であり、また国境の甲浦・野根に将兵を結集させるためにとられた措置でもあった。なお慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)によると野根の庄屋永徳えいとく寺がつとめ、野根浦の刀禰は西尾権右衛門とある。

〔近世〕

山内氏に従って入国した富永頼母が甲浦の代官となって野根郷も兼帯したが、その子伊織が刃傷事件により切腹してのちは甲浦代官は廃止され、馬廻格の上士が二名ずつ野根在番役として派遣された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の野根郷の言及

【東洋[町]】より

…北縁は徳島県に接し,南東は太平洋に面する。中央部を南東流する野根川流域はかつては野根郷と呼ばれた。上流一帯は森林資源にめぐまれ,下流域では農業が行われる。…

※「野根郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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