野間清治(読み)のませいじ

精選版 日本国語大辞典 「野間清治」の意味・読み・例文・類語

のま‐せいじ【野間清治】

出版事業家。群馬県出身。明治四二年(一九〇九)、大日本雄弁会講談社前身)を設立。「雄弁」「講談倶楽部」「キング」「婦人倶楽部」「少年倶楽部」などの雑誌を次々と発刊。明治一一~昭和一三年(一八七八‐一九三八

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デジタル大辞泉 「野間清治」の意味・読み・例文・類語

のま‐せいじ〔‐セイヂ〕【野間清治】

[1878~1938]出版人。群馬の生まれ。教員を経て、明治42年(1909)大日本雄弁会を設立し、次いで講談社を設立。「キング」「講談倶楽部」「少年倶楽部」「婦人倶楽部」などの大衆雑誌書籍を発行した。著作に「私の半生」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「野間清治」の意味・わかりやすい解説

野間清治 (のませいじ)
生没年:1878-1938(明治11-昭和13)

講談社の創業者。群馬県桐生に生まれる。両親は武家の出で維新後は武術を興行して回り,桐生に落ち着き教職を得た。高等小学校,県立尋常師範学校を経て小学校教員となる。その後東京帝大文科大学臨時教員養成所に入り,中等教員の資格を得て沖縄に赴任衆望を得て県視学に昇進したが,1907年東京帝大法科大学の首席書記に迎えられ上京。09年大日本雄弁会を設立し,翌年雄弁》を創刊,11年には講談社を起こして《講談俱楽部》を創刊し,後25年に両者を合体して大日本雄弁会講談社とした。最盛期には9誌を発行し,他に報知新聞社,キングレコードの社長となり,一大マスコミ王国を築いた。野間の思想には親譲りの剣道による心身の鍛練を基本とする教育観,講談的道徳観があり,それらが〈講談社文化〉を形成して旧中間層にアピールしたが,同時に国家主義イデオロギーの担い手たらしめた。自伝に《私之半生》(1936)がある。
講談社
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「野間清治」の意味・わかりやすい解説

野間清治
のませいじ
(1878―1938)

大正・昭和期の出版経営者。明治11年12月17日群馬県桐生(きりゅう)生まれ。東京帝国大学臨時教員養成所卒業。沖縄の中学校教員を経て、東京帝大法科事務員となる。大学内の弁論熱に注目し、弁論を活字化し刊行することを思い付く。1909年(明治42)大日本雄弁会を設立、翌1910年雑誌『雄弁』を創刊。1911年講談社を設立し『講談倶楽部(くらぶ)』を発刊、成功を収めた。以後、『少年倶楽部』(1914)、『面白倶楽部』(1916)、『現代』『婦人倶楽部』(1920)、『少女倶楽部』(1923)、『キング』(1925)、『幼年倶楽部』(1926)などを次々と発刊。『キング』創刊を機に講談社と大日本雄弁会を合併し、大日本雄弁会講談社とした。同社の雑誌だけで1930年代日本全体の雑誌発行部数の約7割を占めるまでに至り、「講談社文化」ともいわれる独特の大衆的文化をつくりあげた。昭和13年10月16日死去。

[有山輝雄]

『辻平一著『人間野間清治』(1960・講談社)』

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朝日日本歴史人物事典 「野間清治」の解説

野間清治

没年:昭和13.10.16(1938)
生年:明治11.12.7(1878)
大正昭和期の出版事業経営者。群馬県山田郡新宿村(桐生市)の生まれ。明治33(1900)年尋常師範学校を卒業し,教師になったが,35年東京帝大文科大学臨時教員養成所に入学。卒業後,沖縄中学校教諭を経て,40年東京帝大法科大学職員となる。折からの雄弁術流行の先頭に立っていた緑会弁論部の創立を助力した。学生の弁論を筆記し活字化する企画をたて,自ら大日本雄弁会を設立,43年雑誌『雄弁』を創刊。44年講談社を創立し,同年講談落語などの寄席芸能を筆記活字化した雑誌『講談倶楽部』を発刊し,大きな成功をおさめた。以後,『少年倶楽部』『少女倶楽部』『婦人倶楽部』などの雑誌を創刊し,雑誌王国を築いた。なかでも,『キング』は,「おもしろくて,ためになる」のキャッチフレーズ通り娯楽と修養を兼備した大衆雑誌として100万部を突破する部数を誇った。「講談社文化」という言葉も生まれたほど,その出版物が大衆の意識に与えた影響は大きい。<著作>『自叙伝』<参考文献>野間清治伝記編纂会編『野間清治伝』

(有山輝雄)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「野間清治」の意味・わかりやすい解説

野間清治
のませいじ

[生]1878.12.17. 群馬
[没]1938.10.16. 東京
講談社の創立者。 1900年群馬県立師範学校を卒業,2年間小学校の教師をしてから,東京大学臨時教員養成所に入学。 04年に卒業して,沖縄県に行き,中学教師と視学をつとめた。 07年上京して東京大学法学部の事務官となり,法学部の緑会弁論部での弁論を出版する目的で,09年大日本雄弁会を創立。翌年最初の雑誌『雄弁』を創刊。 11年講談社を創立して,『講談倶楽部』を創刊。その後は『少年倶楽部』『面白倶楽部』『現代』『婦人倶楽部』『少女倶楽部』を次々に創刊。 24年 12月には『キング』を創刊し,その創刊号 (1月号) は 74万部売れた。「おもしろくて,ためになる」という編集方針が大衆に支持されたためで,翌年1月号は 150万部売れ,最初のミリオン・セラーの雑誌になった。 30年には報知新聞社の社長となり,キングレコードの経営にもあたった。『世間雑話』 (1935) など著書もある。

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百科事典マイペディア 「野間清治」の意味・わかりやすい解説

野間清治【のませいじ】

出版事業家。講談社の創業者。群馬県生れ。群馬師範,東大臨時教員養成所卒。1909年大日本雄弁会を創立,翌年雑誌《雄弁》を創刊。1911年講談社を興し,《講談倶楽部》をはじめ婦人・子ども向け雑誌図書を多数発行。1925年には両者を合体して大日本雄弁会講談社。他に報知新聞社,キングレコードの社長となり,一大マスコミ王国を築いた。1925年創刊の《キング》は日本最初の大衆総合雑誌として成功した。
→関連項目報知新聞

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野間清治」の解説

野間清治 のま-せいじ

1878-1938 大正-昭和時代前期の出版経営者。
明治11年12月17日生まれ。40年東京帝大首席書記となる。42年大日本雄弁会を創立,翌年雑誌「雄弁」を創刊。44年講談社を設立して「講談倶楽部(クラブ)」を創刊,以後「少年倶楽部」「キング」などを創刊し,9雑誌を発行した。昭和5年報知新聞社長。昭和13年10月16日死去。61歳。群馬県出身。東京帝大臨時教員養成所卒。著作に「体験を語る」「私の半生」など。
【格言など】利益は顧客の感謝から寄与されるものである。神様より下し賜る賞与である

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世界大百科事典(旧版)内の野間清治の言及

【キング】より

野間清治によって1925年(大正14)1月号から刊行された大衆娯楽雑誌。大正期に成長しつつあった社会の大衆化現象を敏感にとらえた野間は,〈万人のための百万雑誌〉という望みを託し,〈日本一おもしろい,日本一為になる,日本一安い雑誌〉をモットーとした。…

【講談社[株]】より

野間清治が創業した出版社。野間は1909年に大日本雄弁会を設立,《雄弁》を刊行。…

※「野間清治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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