群馬(読み)ぐんま

精選版 日本国語大辞典 「群馬」の意味・読み・例文・類語

ぐんま【群馬】

[一] 群馬県南部の郡名。古く上野(こうずけ)国の一郡として成立。大正一〇年(一九二一)の郡制廃止以前の郡役所所在地は高崎市。古称、車、久留末、車馬(くるま)
[二] 「ぐんまけん(群馬県)」の略。

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デジタル大辞泉 「群馬」の意味・読み・例文・類語

ぐんま【群馬】

関東地方北西部の県。ほぼもとの上野こうずけ国の全域にあたる。県庁所在地前橋市。人口200.8万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「群馬」の意味・わかりやすい解説

群馬[県] (ぐんま)

基本情報
面積=6362.33km2(全国21位) 
人口(2010)=200万8068人(全国19位) 
人口密度(2010)=315.6人/km2(全国21位) 
市町村(2011.10)=12市15町8村 
県庁所在地=前橋市(人口=34万0291人) 
県花レンゲツツジ 
県木クロマツ 
県鳥=ヤマドリ

関東地方の北西部を占める内陸県で,栃木,埼玉,長野,新潟,福島の5県に接する。

群馬県は旧上野国全域にあたり,幕末には前橋藩高崎藩沼田藩,安中藩,館林藩伊勢崎藩,小幡藩,七日市藩,吉井藩の9藩と約25万石の天領,旗本領とに分かれ,天領を支配する岩鼻陣屋が置かれていた。1868年(明治1)武蔵国南西部を含む旧天領に岩鼻県が新設され,翌年吉井藩を編入した。71年廃藩置県を経て同年11月の府県統廃合の際に,東毛(とうもう)の新田,山田,邑楽(おうら)の3郡を除く諸県域を統合して群馬県が設置された。その後,73年に武蔵国入間県と合併し熊谷県となったが,76年には栃木県の管轄下にあった東毛3郡を編入して現在の県域となり,同時に県名を再び群馬県と改め今日に至っている。

群馬県は日本の先縄文時代研究誕生の地である。すなわち1947年岩宿(いわじゆく)遺跡(みどり市)のローム層中で,相沢忠洋によって初めて石器が発見されたが,この経緯はあまりにも有名である。その後も,権現山遺跡伊勢崎市)や武井遺跡(桐生市)などが調査された。縄文時代では早期の山形押型文土器を主とする普門寺(ふもんじ)遺跡(桐生市)や,関東地方晩期後半の千網(ちあみ)式の標式遺跡である千網谷戸遺跡(桐生市)などが代表的である。弥生時代では,中期の再葬墓址,岩櫃山(いわびつやま)遺跡(吾妻郡東吾妻町),後期の樽式土器標式遺跡,樽遺跡(渋川市),それに東国で初めて弥生時代の大規模な水田址が確認・調査された日高遺跡(高崎市)などが著名。

 古墳時代に入ると,まず前期の集落址で,県下最古の土師器といわれる石田川式の標式遺跡でもある石田川遺跡(太田市),後期の標式的遺跡,入野遺跡(高崎市),それに5世紀末~6世紀初めごろの大型古墳被葬者の居館址と目され注目を集めている三ッ寺Ⅰ遺跡(高崎市)などがある。上毛野(かみつけぬ)は古墳の国である。ごくおもなものだけでも前期から中期にかけて後閑(ごかん)天神山古墳(前橋市),朝倉Ⅱ号墳(前橋市),元島名(もとしまな)将軍塚古墳(高崎市),朝子塚(あさごづか)古墳(太田市),白石稲荷山古墳(藤岡市),赤堀茶臼山古墳(伊勢崎市),そして主軸全長210mと東日本最大の規模をもつ前方後円墳,太田天神山古墳(太田市)と続き,後期では井手愛宕塚(いであたごづか)古墳(高崎市),簗瀬(やなせ)二子塚古墳(安中市),八幡山(はちまんやま)古墳(前橋市),観音塚古墳(高崎市),観音山古墳(高崎市),山ノ上古墳(高崎市),蛇穴山(じやけつざん)古墳(前橋市),そして明らかに仏教文化の影響を示す方墳,宝塔山古墳(前橋市)に至る。

 歴史時代の遺跡も当然多く,上野国衙址(前橋市),上野国分寺址(高崎市),それに多胡(たご)碑(高崎市),山ノ上碑(高崎市),金井沢碑(高崎市)のいわゆる上野三碑を初めとして,古墳時代から平安時代にわたる窯址,製鉄址群からなる金井丘陵遺跡群(太田市)や〈放光寺〉文字瓦を出土し,白鳳期の建立が考えられる山王廃寺(前橋市)も重要である。榛名,浅間などの火山のある群馬県では,これらの噴火による火山灰層が何枚も重なっており,これを鍵層として古墳の新旧関係がわかり,またこれによって古代の水田や,足跡の検出も可能となった。日本のポンペイといわれた鎌原村(吾妻郡嬬恋村)は1783年(天明3)の浅間山大噴火によって埋没した近世遺跡である(〈浅間山〉の項を参照)。
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県域は東,北,西の三方が高い山地で,南東部が関東平野の北西端にあたる平野となっている。東部には足尾,帝釈の山地,北東部には白根山(日光),武尊(ほたか)山の火山,新潟,福島県境には高層湿原の尾瀬ヶ原がある。新潟県境には関東地方の北西縁を限る標高2000m内外の三国山脈が連なり,三国峠,清水峠は関東と越後を結ぶ古くからの交通路の難所であった。県の中央部から北西部にかけては,赤城,榛名,浅間,白根などの火山斜面が広く,伊香保,草津,水上(みなかみ)などの温泉地とともに観光開発が進んでいる。北部山地から流出する利根川とその支流には,多数の多目的ダムが構築され,奥利根,洞元,藤原,赤谷,神流(かんな),草木などの巨大な人工湖は多大の水資源をたくわえており,埼玉県,東京都の生活用水,農業用水,工業用水を供給し,首都圏の水がめといわれる。気候は冬季には北西部の山地から南東部の平野へ吹きおろす強く厳しい〈空っ風〉と乾燥した晴天,夏季には全国的にみても雷雨が多いのが特徴的である。初夏にはしばしばひょうの害を受け,早春には山沿いや山間部で桑の新芽が晩霜の害を受けることがある。

群馬県は全国的にすぐれた産業が少ないが,養蚕とコンニャクは例外的である。昭和初期の最盛期に全国的に普及した養蚕業は,その後の停滞期,衰退期を通じて,群馬県の相対的地位が高まり,第2次大戦後の回復期を経て,1954年からはそれまでの長野県に代わって全国一の地位を確立した。現在養蚕は県の農業粗生産額では養豚に次ぎ,やや停滞気味ではあるが,全国の収繭量の38%(1995),桑園面積の36%を占め,やはり県の代表的な農業といえる。おもな養蚕地帯は赤城,榛名の山麓から北部の低い段丘や丘陵地にかけた地域である。ちなみに上州名物として空っ風とともに知られる〈かかあ天下〉の語は,県の中心的な伝統産業の養蚕と製糸が,おもに婦人の労働に依存し,家庭内での経済的実力も大きく言葉使いも活発なところから使われるようになったといわれる。一方,コンニャクは在来種を中心に下仁田付近に集中していたが,戦後新品種が広まり,連作が可能になるなどによって生産が急増し,栽培地域も拡大した。コンニャクの収穫量は全国の8割弱(1995)を占めるが,生産過剰の徴候もあらわれている。

 近年の県全体の農業の傾向として,野菜,果樹,施設園芸の比重が増大し,工芸作物や養蚕は,停滞ないし減少傾向にある。この背景には1970年に完成した大規模な群馬用水などの開削により畑地灌漑地域が拡大し,低位置の山麓や段丘では桑畑に代わって梨,ブドウ,梅,リンゴなどの果樹や施設園芸が盛んになってきたことがあげられる。養豚,肉牛,採卵鶏,ブロイラーなどの畜産も,大規模経営農家が各地に散在して生産を高めている。比較的標高の高い山麓緩斜面は高冷地野菜の大産地となり,キャベツの収穫量では全国の約12%,愛知県に次いで2位(1995)を占め,とくに嬬恋(つまごい)村は有名である。また浅間山麓など戦後の緊急開拓地は高原野菜栽培が集団酪農地として成功し,最近周辺は観光開発も盛んである。県の中央部から南東部にかけての低地には,広い水田地帯が開け,とくに南東部では渡良瀬川,利根川の堤防や用排水路が完備し,沼沢や低湿地が干拓されたため,米の生産性が向上した。しかし1970年代の米の生産調整以来,水田の工業用地や住宅地への転換が進んでいる。

 林業では国有林はかなり広いが,木材の生産は北部や北東部の山地の一部に限られ,民有林も大部分が広葉樹の雑木林で生産性が低く,杉,ヒノキの植林も伐期に達していない所が多い。

近世以降特色ある産業であった養蚕と製糸は,明治以後前橋,高崎,富岡などを中心に急成長し,大規模な官営の機械製糸工場が1872年富岡にできるなど,先進地としての地位を確立した。機業においても桐生,伊勢崎などに絹織および交織が発達した。製糸業は第2次大戦後の生糸輸出の激減により衰退したが,桐生,伊勢崎を中心とした絹織物業は,工場化の進行と近郊農家の賃機(ちんばた)による機業圏の確立により明治末から昭和初期にかけて隆盛期を迎えた。しかし戦後の和服の需要減と高級化指向により,伊勢崎の銘仙は消滅し,これに代わったウール絣も消滅寸前である。桐生では不況にあえぎながらも婚礼衣装や輸出用の広幅物,婦人服地などにも力を入れ,絹織物の町としての名声を保っている。

 第2次大戦中に軍需産業が栄え,戦後その跡地に自動車,電機などの大工場が立地し,下請,関連の中小工場も県の中・南部一円に立地した。かつて県の主要産業で1955年の製造品出荷額で33%を占めていた繊維工業は95年にはわずかに0.9%となり,輸送機器26%,電気機器24%などの諸工業へと,その地位が逆転した。戦時中急成長した太田市の中島飛行機工場の跡地を譲り受けた富士重工は,小型自動車の大組立工場となって活況を呈し,このため太田市の製造品出荷額は,高崎,前橋をぬき,県内第1位となった。大泉町および尾島町(現,太田市)の電気機器の工場も軍需工場の跡地に立地し,県内有数の大工場となった。関越自動車道,上信越自動車道が開通し,高崎,前橋にも電機関係の大工場が,また安中の化学,亜鉛精錬,渋川の特殊鋼の工場なども立地している。その他の主要都市の多くは,桐生,伊勢崎,館林を含め,輸送機器,電気機器工業が優位にある。高崎,伊勢崎,前橋などでは,工業団地を造成して工場誘致に効果をあげ,また県東部では近年干拓地や河畔砂丘に工業団地を造成し,優良企業の誘致に成功した例がある。

群馬県では上野国,下野国の古称の毛野(けぬ)にちなんで赤城,榛名の北側を北毛(ほくもう),利根川の西を西毛,東を中毛,旧館林藩領を東毛と呼びならわしてきた。しかし近年は道路交通が便利になり,渋川,高崎,前橋,伊勢崎,藤岡などの諸都市の結合が緊密になったため,中毛地域にこれら諸都市を含めて県央と呼び,これに呼応して県北,県西,県東という呼名も使われることがある。ここでは著しく地域概念が拡大した中毛を県央と読み替え,そのほかを西毛,東毛,北毛と呼ぶことにしたい。

(1)県央 前橋,高崎,渋川,伊勢崎の4市および藤岡市の大部分と周辺の町村を含む。赤城山,榛名山の一部をなす北部の山地斜面のほかは,大部分が利根川沿岸の低地,台地からなる。群馬県庁は1876年8月高崎におかれたが,翌月には前橋に移された。利根川をはさんで隣接する前橋と高崎はともに近世の城下町であるが,以後前橋が県庁所在地として行政の中心をなし,古くからの交通の要地である高崎も商工業都市として発展している。人口も前橋が約28万,高崎が約24万(1995)とほぼ等しく,両市で県中心部の二つの核をなしている。かつて西毛と中毛の境となっていた利根川は,現在では多数の橋により両側が一体化し,前橋と高崎の市街地は連続しようとしている。県内で最も早く1883年に高崎線が開通したこの地域は,上越および長野新幹線,信越本線,両毛線,上越線,八高線,吾妻(あがつま)線,上毛電鉄など鉄道網がよく発達している。その起点,分岐点をなす高崎,前橋,伊勢崎,渋川の4市は,工業化の進展に関して,太田に次ぐ優位を確保している。また関越自動車道,上信越自動車道が通じ,便のよい藤岡も東京に近いという利点により,工業化や人口増加が著しい。これら5都市の周辺は桑畑,普通畑,水田が混在し,基盤整備事業や各種の主産地の形成も進み,多彩な農業が展開している。しかし全般的に第2次・第3次産業との兼業化が進んでいる。

(2)西毛 富岡,安中の2市と藤岡市の南部および周辺の町村からなる。東山道を東漸する文化は,碓氷峠を越えて西毛に流入するため,ここは早くから文化が進んでいた。明治から昭和初期までの養蚕業の繁栄や,戦後の工業化も西毛から始まった。鉄道の開通も比較的早く,1885年横川まで開通していた信越本線は93年碓氷トンネルの完成によって長野県,新潟県と結ばれ,高崎と下仁田を結ぶ上信電鉄は97年に開通した。また1997年10月には長野新幹線安中榛名駅が開業した。なお同新幹線の開業に伴い,横川~軽井沢間の信越本線は廃止となった。鏑(かぶら)川,烏(からす)川沿岸などを除いては,低地が狭く,丘陵地,段丘,火山などの斜面が広いため,日本経済の高度成長期以降は,農業の機械化や大工場の進出に対して遅れをとり,経済活動は一般に停滞傾向が強い。農業は榛名山麓の果樹や施設園芸を除いてはみるべきものが少なく,山間部をはじめとして,過疎化が進んでいる。

(3)東毛 桐生,太田,館林,みどりの4市と周辺の町からなる。利根・渡良瀬両川の沖積低地が大部分を占め,北部に台地,山地が連なる。南東部は低湿地で,洪水の常襲地であったが,草木ダムの完成(1976)によって水源が安定し,堤防,用排水路の整備,渡良瀬川農業水利事業の完成(1984)によって機械化の進んだ米作や,裏作の大規模な麦作が可能になった。鉄道は両毛線が1889年,足尾線(現,わたらせ渓谷鉄道)が1912年,この地域と東京方面を直結する東武鉄道は1907-13年に開通した。桐生の繊維産業,館林の食品関係の地場産業は停滞気味であるが,太田の自動車,大泉の電機の好況に支えられて,周辺の工業化,住宅地化が進んでいる。

(4)北毛 沼田市と利根・吾妻2郡の範囲をいい,利根川上流部と二大支流の片品川,吾妻川の流域を占める。沼田,中之条の盆地以外は大部分が山地のため,この地域に鉄道が開通したのは昭和に入ってからで,新潟県と結ぶ上越線の開通は1931年,吾妻線(旧,長野原線)は45年であった。高原野菜,酪農などに関与する一部の農家を除いては,一般の農牧林業は不振で,過疎化の傾向が強い。群馬県側に急崖の多い三国山脈,火山と温泉に恵まれた日光,尾瀬,上信越高原の3国立公園などは,東京に最も近い山岳,高原として,利用度の高い観光レクリエーション地域となっている。82年の上越新幹線や関越自動車道の開通などが,今後の観光開発に好影響をもたらすと期待されている。
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群馬(旧町) (ぐんま)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「群馬」の意味・わかりやすい解説

群馬
ぐんま

群馬県中西部、群馬郡にあった旧町名(群馬町(まち))。現在は高崎市(たかさきし)の北東部に位置する地域。1955年(昭和30)金古(かねこ)町と国府村、堤ヶ岡(つつみがおか)村が合併して群馬町が成立。1957年上郊(かみさと)村の一部を編入。2006年(平成18)高崎市に編入。旧町域は榛名山(はるなさん)南東麓(ろく)の緩斜面を占め、標高は北西部が200メートル、南東部が120メートルで、道路は縦横によく走り、中央を南北に主要地方道の高崎―渋川(しぶかわ)線が貫通し、近くに関越(かんえつ)自動車道前橋インターチェンジがある。火山裾野(すその)のため農業用水に乏しくて溜池(ためいけ)が多く、米麦のほか、とくに養蚕が盛んであったが、最近では減少傾向にあり、かわって畜産、野菜などとの複合経営が行われている。旧堤ヶ岡には多くの工場や住宅地が建設され、農村の姿が変化しつつある。国指定史跡の上野国分寺跡(こうずけこくぶんじあと)、保渡田(ほどた)古墳群跡があり、金古は旧三国(みくに)街道の宿駅。保渡田薬師塚古墳から出た馬具などは国の重要文化財に指定されている。

[村木定雄]

『『群馬町誌』全8冊(1995~2002・群馬町)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「群馬」の意味・わかりやすい解説

群馬
ぐんま

群馬県中南部,高崎市東部の旧町域。榛名山南東麓にある。 1955年金古町と堤ヶ岡村,国府村の2村が合体して群馬町が発足。 2006年高崎市に編入。丘陵や台地が広く,養蚕地帯であったが,ハクサイ,ホウレンソウなどの野菜栽培,養豚への転換が進んだ。前橋市との境界近くにある上野国分寺跡および西部の保渡田古墳群はともに国の史跡。

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普及版 字通 「群馬」の読み・字形・画数・意味

【群馬】ぐんば

馬の群れ。

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