金谷宿(読み)かなやしゆく

日本歴史地名大系 「金谷宿」の解説

金谷宿
かなやしゆく

[現在地名]金谷町金谷

大井川の右岸にあり、北は同川支流の大代おおじろ川を境に金谷河原かなやかわら町、西は小箱根しようはこねと称された金谷坂・菊川きくがわ坂などが控え、南は牧之原まきのはら台地に続いている。東海道の江戸から二四番目の宿駅で、東の島田宿へは一里、西の日坂につさか宿(現掛川市)へは一里二四町、江戸へは五三里二町四五間。金谷河原町は加宿を勤めた(宿村大概帳)

〔中世〕

中世には質侶しとろ庄金谷郷内に所在した。連歌師宗祇の作といわれる「名所方角抄」に「さよの中山のかたにかなやといふ宿在、(大井川)の間一里あり、河の西は遠江なり、東向は駿河島田と云宿あり」とみえる。太田道灌の作といわれる文明一二年(一四八〇)の「平安紀行」には「かなやの駅にて、思ふかな八重山こえて梓弓ハるけき旅の行末の空」とある。また弘治二年(一五五六)駿府に下向した権大納言山科言継は「(小夜中山)麓ニ里二三十有之、菊川とて矢之根打之所也、又山一越之至金屋里、此山之間二里云々、其末過大井川一里至嶋田」と記している(「言継卿記」同年九月二三日条)

〔近世〕

文禄二年検地高目録には金屋村とみえ、高二〇四石余。正保郷帳には金谷町とあり、田方八三〇石余・畑方二四八石余、幕府領ほか大学だいがく(現曹洞宗大覚寺)領九石二斗・国生こくしよう(現廃寺)領一石がある。正保年中(一六四四―四八)に金谷河原町が分郷したとされ(遠淡海地志)、元禄郷帳では高八二八石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領で、ほかに大学寺領・洞善とうぜん(現曹洞宗)領・薬師(医王寺薬師堂)領が記される。享保郷村高帳では幕府領で掛川藩預地。天保郷帳には金谷宿と記され、「古は金谷町」と注記される。旧高旧領取調帳では幕府領八四九石余、ほかに大覚だいかく寺領一四石二斗・医王いおう寺領三石九斗余・洞善院領三石・利生りしよう(以上現曹洞宗)除地一石三斗余・長光ちようこう(現日蓮宗)除地六斗余・了養寺(現廃寺)除地一石二斗・国勝こくしよう(曹洞宗、現廃寺)除地六斗余・巌室いわむろ神社領八斗余がある。年貢米川崎かわさき(現榛原町)から江戸へ積出された(宿村大概帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「金谷宿」の解説

金谷宿
かなやしゅく

東海道の宿駅(現,静岡県島田市)。大井川西岸にある。対岸の島田とともに,大井川川越制度によって繁栄した。1843年(天保14)には町並東西16町24間,加宿の川原町を含めた人口4271人,家数1004軒,うち本陣3・脇本陣1・旅籠屋51,定人馬155人5分100疋,うち定囲5人5疋・臨時御用囲20人15疋。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の金谷宿の言及

【金谷[町]】より

…武田信玄が築いた諏訪原城(史)がある。【萩原 毅】
[金谷宿]
 遠江国の宿駅。大井川をはさみ,対岸の島田宿とともに東海道の交通の要地として発展。…

※「金谷宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android