川原町(読み)かわらまち

日本歴史地名大系 「川原町」の解説

川原町
かわらまち

[現在地名]松前郡松前町字福山ふくやま

近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川に沿って南北に通ずる二筋の道のうち西側の道に沿う町。河原町とも記した。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」にみえる「唐都町」が当町のことと思われる。享保二年(一七一七)の「松前蝦夷記」に「川原町」と記される。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると南北の通りは一一三間。

寛政一〇年(一七九八)には嘉右衛門が名主であった(家中及扶持人列席調)。文化六年の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば家数一八一・人数六〇〇で、ヲタスツ場所請負人吉田屋喜左衛門(運上金一九二両)が店を構えていた。「蝦夷日誌」(一編)には「北南に長し。西うら神明川、東うら中川原町、北神明橋に到る。


川原町
かわらちよう

[現在地名]盛岡市南大通みなみおおどおり三丁目など

鉈屋なたや町南西に位置する奥州街道の両側町で、三町半ほどの町人町(「盛岡砂子」など)。北西は下河原しもがわら、南西は北上川に接する。奥州街道は当町から北上川対岸の仙北せんぼく町へ新山しんざん舟橋で越え、舟橋の東側には新山河岸が広がる。正保城下図(内閣文庫蔵)には北上川の河原に長さ二町の通りと惣門(のちの新穀町惣門)への橋が描かれるのみで、寛永城下図には橋に川原町橋と記されるが、町並はみえない。


川原町
かわらまち

[現在地名]四日市市川原町・きよう町・陶栄とうえい町・滝川たきがわ

三滝みたき川の北に位置し、東海道に沿って民家が並ぶ。北は浜一色はまのいつしき村の枝郷の川原町。四日市宿に属する川原町を南川原町、浜一色村の川原町を北川原町といって区別をした。北側をがま川が流れる。西は末永すえなが村、東は浜一色村。南は三滝川を隔ててきた町。旧版「四日市市史」によれば初め九軒の家があることから九軒きゆうけん町とも称し、寛文年間(一六六一―七三)以降川原町となった。


川原町
かわらまち

[現在地名]高知市小津おづ

小高坂こだかさ村の南東部に郭中かちゆう堤防とくち川の間にできた東西に長い侍屋敷町。南西にさくら馬場に渡る円満寺えんまんじ橋、東に尾戸おどへ渡る川原町橋が架かる。慶安元年(一六四八)に開かれた町という(皆山集)

正保年間(一六四四―四八)の高知城絵図には屋敷はみえず、小路が川原町橋辺りと円満寺橋を結んでいる。しかし寛文九年(一六六九)の城下町絵図には川原町とみえ、郭中堤防に沿う道の北側に一一軒の武家屋敷がみえる。天保一二年(一八四一)の城下町絵図では、川原町通はほぼ東西の道とその西端で江ノ口川に沿うように南折する道となり、この道と郭中堤防の間にも侍屋敷ができている。


川原町
かわらまち

[現在地名]小矢部市今石動町いまいするぎまち一丁目

下新しもしん町の東に続く北陸街道沿いの両側町。散町に属する。カラマチともいう。もとは小矢部川の河原で、今石動町で最も低地に立地。下新町境に作左衛門さくざえもん橋、町内中ほどに中之なかの橋、東部に砂川すながわ橋が架かる。今石動町の東端に位置し、砂川橋の東、福町ふくまち村との境に木戸が設けられていた。北裏は畠中はたけなか村、南裏は小矢部村寄島よじま村。寛保二年(一七四二)には宅地三千二五一歩で、地子米二〇石九升余(一歩につき六合一勺余)


川原町
かわらまち

[現在地名]出石町川原

田結庄たいのしよう町の北西に位置する町人町。出石川(現在の谷山川)の東岸を占め、南は武家町のやなぎ町。旧谷山たにやま川は当町南端、柳町境で出石川に注いでいた。端町で庄屋を置き、河原町とも書いた。出石封内明細帳、文化七年(一八一〇)の城下絵図などによると、竪町は柳町境、旧谷山川の川口に架かる土橋から北に延び、豊岡街道の松畷口に至る南北路の両側町で、道の長さ二町一六間・幅二間五尺、道の西側を幅二尺の溝が流れる。


川原町
かわらまち

[現在地名]高山市川原町かわはらまち

しろ山の西、みや川左岸のなか橋より上流に位置する。南は東川原町、東は同川を挟んで神明しんめい町。二之町村に所属した。町名は同川の河川敷に成立したことに由来すると思われ、「飛騨国中案内」に「上川原町より中橋詰迄、町長六町一間あり、只今家数百五十一軒、是も先年は士屋敷并商人・諸職人等入交居住す、只今は商人職人日雇稼の者共計也、是を上川原町・東川原町・本川原町といふ」とあるうちの本川原ほんかわらに相当する。元禄七年(一六九四)の検地では三之町村に所属し、屋敷二反余・分米一石八斗余、屋敷持数・家数三一(同八年「二之町村屋舗検地帳」高山市立郷土館蔵)。陣屋の前にあることから陣屋と関係が深く、同所の用水は当町を通っていた。


川原町
かわはらまち

[現在地名]函館市川原町など

昭和六年(一九三一)九月に設定された町で、やなぎ町の東に位置する。それまで函館区大字亀田村かめだむらの字であった柏野かしわのの一部に、字十文字じゆうもんじの一部を加えて町域とした(函館市字地番改正調書)。町名の由来は、付近にさめ川上流の河道の痕跡が残っていたことによる(函館地名考)。当町の成立以前の昭和五年、渡辺熊四郎から一万坪の土地の寄付を受け函館工業学校(大正一〇年開校)を新築。昭和一〇年の戸口は一〇世帯・三七人。


川原町
かわらまち

[現在地名]岩国市横山一丁目・同二丁目の各一部

横山よこやま郭外の東南部、乗越のりこし門外から万屋谷よろずやだに川西かわにしに通ずる道に面したにしき川沿いの片側町。当初の町の計画にはなく、少し遅れて慶安元年(一六四八)にでき、同四年の検地で初めて家数二三軒が町地として登録された。

当時は錦帯橋きんたいきようがなく、洪水の時町方の錦見にしみ町への渡舟が絶えて武家の生活が差し支えるので、横山側にも小さな町を必要としたのであろう。家数は享保一一年(一七二六)には六三軒に増加、人口一三六人であった(享保増補村記)


川原町
かわらまち

[現在地名]大館市川原町

けい城下北西端部の町人町。西流する長木ながき川左岸沿いに東西に走る道路に沿って存立。西端部は南から北上する町と直角状に交差する。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「川原町」とある。延宝三年(一六七五)外町を再編する時点でおお町・馬口労ばくろう町の百姓を移転させたという(六郡郡邑記)

「六郡郡邑記」には町人町の項に「河原町」、武家町の項に「川原町」とあり、「郷村史略」では、商人町の外町の項に「川原町下タ」とあり、武家町の項にも「下タ町土手町 仏町川原町 十狐町」とみえる。


川原町
かわらまち

[現在地名]五戸町 川原町

五戸町の北、五戸川左岸沿いの低地に位置する。奥州街道筋にあたり、街地の北の出入口に位置したことから、街路は鉤形となっている。雑書の延宝七年(一六七九)二月二一日条に「五戸川原町」とみえ、二の日の三斎市開催が認められている。藩政初期には駅場が置かれ、制札場とされていたといい(五戸町誌)、町場として早くから賑っていたものとみられる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」によれば家数一三一。享和三年(一八〇三)仮名付帳では家数六八。藩政後期の奥筋行程記(岩手県立図書館蔵)には、五戸町全体で酒屋八軒、質屋四軒とある。


川原町
かわらまち

[現在地名]魚津市真成寺町しんじようじまち

神明しんめい川の左岸、真成寺町の北端近くの北陸街道から同川に沿って東に延びる通りの両側町。対岸は神明町、東は本江ほんごう村、南は真成寺町の常泉じようせん寺の寺地などに接している。元禄一五年(一七〇二)の大火後、本江村領の地を永代請にし、一五軒で町立てされた(天明六年「魚津町宿鑑帳」越中古文書)


川原町
かわらまち

[現在地名]角館町川原町

内町の一つで、北西端にある。南は歩行かち町、北家所預屋敷から南に通じる通りの東端で、おもて町の屋敷裏に接する。西は屋敷裏に通路と檜木内ひのきない川から取水したうち川があり、檜木内川を渡ると城下町外周の川原村。

北家が所預となった明暦年間(一六五五―五八)に家臣を居住させたといわれ、それ以前は歩行町の一部であった。


川原町
かわらまち

[現在地名]武生市吾妻あづま町・住吉すみよし

他の諸町と異なり、武家屋敷の東で府中の町端、日野川原に位置し町名もこれから生れた。元来、大門だいもん町とともに武家屋敷地も含めて、大門河原だいもんがわら村地籍であったと思われるが、この村名としては正保郷帳にみえ、田方一〇七石余・畑方七五石余とある。町名は正徳元年(一七一一)府中惣絵図にみえる。


川原町
かわらまち

[現在地名]横手市大町

北流する横手川が西流する曲り角に沿ったおお町北東部の町。藩政初期と推定される横手古図(石川教敏氏蔵)に道がみえ、寛文九年(一六六九)横手絵図面(横手郷土史資料)に川原町の町名と、家一一戸が記され、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に、町の長さ一一一間、家数一〇軒とある。寛政九年(一七九七)一〇月に「川原町川前通是迄之通リ丁歩外ニ被成置」(横手町伝馬役勤方覚)と川原町川前通は従来どおり町分に含まれないとされた。


川原町
かわらちよう

[現在地名]小樽市信香町のぶかちよう

明治初年(同二年八月―同六年の間)より同三二年(一八九九)まで存続した町。勝納かつない川の河口部にある。明治二、三年頃までは七、八戸の人家があるのみであったが、勝納川河口の賑いに伴って人口が増加、明治六年川原町を称したという。同七年二月ともいう(「事業報告」第一編)


川原町
かわらまち

[現在地名]能代市檜山字高瀬堀たかせぼり

赤館あかだて町の端から檜山川を渡った田地の中にある。享保一三年(一七二八)の檜山一円御絵図(秋田県庁蔵)では、赤館町から川を渡るとすぐ弓場があり、松野組下の足軽屋敷が続く。二つの集落に分れ、計一八軒。間数は二つの集落のつなぎの部分も含めて一六三間。天保二年(一八三一)檜山絵図(秋田県庁蔵)では一〇軒で六二間。


川原町
かわらまち

[現在地名]八幡町島谷

吉田よしだ川左岸の乙姫おとひめ川右岸にあり、八幡城の南に位置する。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図には単に町とのみみえる。寛文四年の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)には年明新中間として河原町才八がみられる。


川原町
かわらまち

[現在地名]氷見市南大町みなみおおまち

南十町の一つ。氷見町中央を流れるみなと川の河口南側に開かれた町で、正徳二年(一七一二)氷見町の増屋八郎右衛門が家建てを願出たのに始まるという(憲令要略)。散町の一つ。当時湊川の河口が地蔵新じぞうしん町側に広がっていて、それゆえ川原町と名付けられたと伝える(氷見市史)


川原町
かわらまち

[現在地名]鹿角市花輪 川原町

花輪はなわの北部に位置し、古館ふるだて南側を西流して米代川に注ぐ福士ふくし川に沿う。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に「三十一軒川原町」とある。


川原町
かわらまち

[現在地名]七戸町 七戸・西上川原にしかみかわら

七戸村の町方の南西に位置し、みなみ町の西に延びる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に家数一四とあり、享和三年(一八〇三)の仮名付帳には七戸村の支村として家数一三、うち給人七とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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