岡部村(読み)おかべむら

日本歴史地名大系 「岡部村」の解説

岡部村
おかべむら

[現在地名]福島市岡部

阿武隈川右岸の低位沖積段丘面上に立地し、対岸本内もとうち村・五十辺いがらべ村。氾濫原上に形成された村で、「信達二郡村誌」は「地形窪下ニシテ逢隈川ニ瀕スルヲ以テ洪水ノ汎濫ヲ避ケ丘阜ニ拠テ家居ヲ占ム」と記す。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫大仏しのぶだいぶつ方として「おかへ」とあり、段銭は一貫六五〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録には「しのふをかへのかう」とみえ、中野常陸介・本内五郎左衛門・舟山彦左衛門・鎌田四郎兵衛の分を除いた同郷が須田源六に与えられている。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高九三六石余。近世初期の邑鑑によると免二ツ七分、家数三〇(役家一三、肝煎四、職人・寺・脇家一三)、人数七一、役木として桑・楮各少しがある。米沢藩領時代の古高一千四〇八石余、幕府検地による新高一千一四六石余(古高新高帳)領主の変遷は小倉寺おぐらじ村と同じ。慶長二年(一五九七)蒲生氏の代官門屋助右衛門尉は当村を含む山口やまぐち腰浜こしのはま岡本おかもと中島なかじまなど二八村・高一万四千八七一石余を支配していた(「藤三郎倉入在々高物成帳」福島県史)。元和五年(一六一九)伊達家の旧臣斎藤二郎兵衛は「岡部村荒地三百石」を開墾、米沢藩から五年間の諸役免除を受けた(斎藤家文書)


岡部村
おかべむら

[現在地名]岡部町岡部

現岡部町北東端に位置し、櫛挽くしびき台地と利根川沖積低地の漸移地帯にあたる。東は宿根しゆくね(現深谷市)など、西は普済寺ふさいじ村、南ははり村、樫合かしあい(現深谷市)、北は矢島やじま(現同上)。岡辺(小高い所の麓の意)とも記し、これが村名の由来とされる。「風土記稿」によると、かつては普済寺村を含んでいたという。村の北方を中山道が通る。古代から中世にかけて、当地および周辺一帯は岡部原と称された。「曾丹集」には「むさしののをかべのはらの秋萩も花さきがたになりにけるかな」の歌が載る。猪俣党岡部氏の名字の地とされ、猪俣忠兼の子忠綱が岡部六太夫と称し岡部氏の祖となった(「猪俣党系図」諸家系図纂)。忠綱の孫が六弥太忠澄で、「保元物語」(官軍勢汰へ并びに主上三条殿に行幸の事)には源義朝方として岡部六弥太、「平治物語(源氏勢汰への事)にも義朝方の岡部六弥太忠澄としてその名がみえる。


岡部村
おかべむら

[現在地名]木造町柴田しばた

東は柴田村に続き、田圃を隔てて北に貫水ぬきみず村、西に菊川きくかわ村。

天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名が「野崎」とだけみえる。村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、享保一一年(一七二六)これまでの上野崎かみのざき村が岡部村と改名された。翌年木造新田に属し、木造通三五ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて二八町六反九畝歩、村高一四九・六六石とある。うち田方は二四町六反八畝二八歩で一四一・五三一石、上・下・下々田と設定され、下々田が一六町七反三畝一四歩、八三・六七三石とあり、畑方は四町二歩で八・一二九石、下畑と下々畑のみで、下々畑が二町八反四畝一三歩、二・八四四石とある。


岡部村
おかべむら

[現在地名]南知多町内海うつみ

内海庄の最北端に位置し、吹越ふつこし村の北にあり、北部一帯は丘陵で南部の低地に耕地や集落がある。「寛文覚書」によれば、概高二五九石余、田地一〇町三反一畝、畑地九町三反一畝余、家数四〇、人口二四八。将軍上洛・朝鮮使節通行の時人馬を出す。塩浜一町二反三畝余とある。「徇行記」によれば、民家が東西に長く続き、裏作の麦は三分どおりで畑作は麦・粟・稗類を多く作り、木綿は出来が悪く大豆も少ない。黒鍬稼に一〇人ほど出る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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