長寿寺跡(読み)ちようじゆじあと

日本歴史地名大系 「長寿寺跡」の解説

長寿寺跡
ちようじゆじあと

[現在地名]那覇市松山二丁目

久米村北東部、久茂地くむじ村北側の東郷松尾とーごーまーちゆーとよばれる松尾まつお山の東麓にあった。長虹ちようこう堤の終点のイベガマの西にあたる。壺宝山と号し、俗にウイシの寺(御伊勢の寺)ともよばれた。「琉球国由来記」によると、景泰三年(一四五二)国相懐機の創建という。同年は尚金福の冊封の年にあたっていた。冊封使が那覇から首里に行くのに、那覇潟原かたばる泊の崇元とうまいのそうげん寺までの間は船橋によって渡っていた。このため尚金福は懐機に道を造ることを命じた。二昼夜神仏に祈ったところ、潮が引いて海底が現れ、七日にして長虹堤が完成したという。懐機は神仏に感謝するため自らの宅地天照大神(伊勢神宮)を勧請して社殿を建て、さらに宅地を寄進して長寿寺を創建、満叟を開山住持にしたという。


長寿寺跡
ちようじゆじあと

[現在地名]熊本市八幡町

河尻かわしり神宮のそばにあった天台宗寺院で「国誌」に長寿寺西海山焔王院とあり、延暦寺末寺とも正覚しようがく院末寺ともいう。若宮五社大明神社(現河尻神宮)祭祀を勤めたとある。建久八年(一一九七)河尻三郎実明が建立、開山は朝法印、退転の後、天正(一五七三―九二)の頃神宮寺の末寺となり、さらに正徳三年(一七一三)延暦寺の末寺となる。元文元年(一七三六)住持秀泰が閻魔・鏡秤を起立したという。閻魔堂について、「国誌」によれば河尻実明は長寿寺建立に際し、閻魔大王の像を安置したため、この村を閻魔堂村とよんだが、今は円満堂村の名が残るという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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