長沼守敬(読み)ナガヌマモリヨシ

デジタル大辞泉 「長沼守敬」の意味・読み・例文・類語

ながぬま‐もりよし【長沼守敬】

[1857~1942]彫刻家岩手の生まれ。明治美術会創設参加。日本近代彫刻の基礎づくりに尽力した。

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精選版 日本国語大辞典 「長沼守敬」の意味・読み・例文・類語

ながぬま‐もりよし【長沼守敬】

  1. 彫刻家。陸奥一関岩手県出身。ベネチア王立美術学校で彫刻を学び、帰国後、明治美術会の創立に参加。東京美術学校教授となり、本格的な洋風彫刻を伝えた。代表作老夫像」。安政四~昭和一七年(一八五七‐一九四二

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20世紀日本人名事典 「長沼守敬」の解説

長沼 守敬
ナガヌマ モリヨシ

明治・大正期の彫刻家



生年
安政4年9月23日(1857年)

没年
昭和17(1942)年7月18日

出生地
陸中国一関(岩手県一関市)

学歴〔年〕
ベネチア王立美術学校〔明治18年〕卒

経歴
明治8年在京イタリア公使館に勤務。14年イタリア留学、ベネチア王立美術学校でエルジ・フェラリらに彫刻を学ぶ。またベネチア王立高等商業学校で日本語を教えた。20年帰国。21年東京美術学校雇、22年明治美術会創立に参加。「童子」「婦人半身」「ガリバルヂ将軍」などを出品。25年同会教師。28年第4回内国勧業博審査官となり「伊太利亜皇帝像」で妙技3等賞。30年ベネチア万博に派遣され、31年帰国して東京美術学校教授、33年退官。同年パリ万博で「老夫像」が金賞碑。40年より文部省美術審査委員会委員も務めた。わが国彫塑界の先覚者の一人として活躍したが、大正3年突然彫刻界から退いて千葉県館山に隠棲した。他に「岩倉具視像」「木戸孝允像」「渋沢栄一像」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長沼守敬」の意味・わかりやすい解説

長沼守敬
ながぬまもりよし
(1857―1942)

彫刻家。安政(あんせい)4年陸奥(むつ)一ノ関(岩手県)に生まれる。官学派の堅実な技法により、洋風彫刻界で指導的役割を果たした。1874年(明治7)上京してイタリア公使館に勤務し、81年公使の帰国に同行してイタリアに渡り、ベネチア王立美術学校に学び、85年卒業、87年に帰国した。89年明治美術会の創立にただ1人の彫刻家として参加し、会員となった。90年に第3回内国勧業博覧会の審査員を務めて以来、審査員を歴任。98年東京美術学校の教授となり、同校彫刻科の塑造科新設に尽力したが、まもなく辞任した。1908年(明治41)文展開設以来審査員を務めた。1900年のパリ万国博に出品して金牌(きんぱい)を得た『老夫』(1898)が代表作。昭和17年7月18日千葉県館山(たてやま)で没。

三木多聞

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改訂新版 世界大百科事典 「長沼守敬」の意味・わかりやすい解説

長沼守敬 (ながぬまもりよし)
生没年:1857-1942(安政4-昭和17)

彫刻家。陸奥国一関に生まれる。1874年上京してイタリア公使館に勤務,81年イタリアに渡りベネチア王立美術学校に学び,87年帰国,明治美術会の創立に参加。98年東京美術学校の教授となり,塑造科新設に尽力し,文展開設から1913年まで審査員をつとめた。官学派の堅実な技法で洋風彫刻に先駆的役割を果たした。代表作に《老夫》などがある。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「長沼守敬」の解説

長沼守敬

没年:昭和17.7.18(1942)
生年:安政4.9.23(1857.11.9)
明治期の彫刻家。陸奥一関(岩手県)に士族の子として生まれる。明治7(1874)年に上京し,キオソーネにイタリア語を学び,8年,イタリア公使館の通訳見習となる。14年,公使バルボナーニの帰国に同行してイタリアに渡った。ベネチア王立高等商業学校で日本語を教えながら,ベネチア王立美術学校でルイジ・フェラーリ,アントニオ・ダルツォットに師事し,アカデミックな彫刻を学ぶ。20年帰国。22年明治美術会創立に参加。同会の教場で後進を指導したほか,31年に東京美術学校(東京芸大)に新設された洋風彫塑教室の初代教授を33年まで務めた。大正3(1914)年,突然彫刻界を退いて隠棲した。代表作に「老夫」(東京芸大蔵)がある。

(山梨絵美子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長沼守敬」の意味・わかりやすい解説

長沼守敬
ながぬまもりよし

[生]安政4(1857).9.23. 岩手,一関
[没]1942.7.18. 館山
彫刻家。上京してイタリア公使館に勤務し,1881年イタリアに留学,ベネチア王立美術学校で彫刻を学び,85年優秀な成績で卒業。 87年帰国後は明治美術会の創立に参加し会員となる。 97年イタリア,フランスの美術工芸視察のため再び渡欧,翌年帰国して東京美術学校塑造科の初代主任教授に就任。また 1907年文展審査員となり,イタリア・アカデミズムの技法を伝えて明治洋風彫刻の先覚者となった。 14年からは千葉県館山に隠棲。主要作品『老夫』 (1900,東京芸術大学) ,『ベルツ胸像』 (東京大学構内) ,『毛利敬親公像』 (山口,長府) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長沼守敬」の解説

長沼守敬 ながぬま-もりよし

1857-1942 明治-大正時代の彫刻家。
安政4年9月23日生まれ。明治7年に上京,イタリア公使館ではたらく。イタリア留学後,31年東京美術学校(現東京芸大)の洋風彫塑教室の初代教授。33年パリ万国博覧会出品の「老夫」で金牌(きんぱい)受賞。昭和17年7月18日死去。86歳。陸奥(むつ)一関(岩手県)出身。ベネチア王立美術学校卒。作品はほかに「伊太利亜皇帝像」など。

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百科事典マイペディア 「長沼守敬」の意味・わかりやすい解説

長沼守敬【ながぬまもりよし】

彫刻家。岩手県生れ。1874年上京してイタリア公使館に勤務し,1881年ベネチアに留学して彫刻を学んだ。帰国後,明治美術会の創立に参加,1898年東京美術学校塑造科の初代主任教授に就任。1900年パリ万国博に《老夫》を出品して金賞を受けた。

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367日誕生日大事典 「長沼守敬」の解説

長沼 守敬 (ながぬま もりよし)

生年月日:1857年9月23日
明治時代;大正時代の彫刻家。東京美術学校教授
1942年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長沼守敬の言及

【明治・大正時代美術】より

…ラグーザは15年間同校にあって,その門下からは大熊氏広(1856‐1934),藤田文蔵(1861‐1934),小倉惣次郎(1843‐1913),佐野昭(しよう)らが育った。彼らに加えて,81年から5年間ベネチアで学んだ長沼守敬(もりよし)が洋風彫塑の開拓者といえようが,国粋主義の伝統復興運動のさなかに設立された東京美術学校では,木彫だけが採用され,竹内久一(きゆういち)(1857‐1916),高村光雲,石川光明,山田鬼斎(1864‐1901)が登用された。93年に開かれたシカゴ万国博覧会には竹内の《伎芸天》,高村の《老猿》,石川の《白衣観音》が出品されたが,これらが明治期の木彫を代表する作品であった。…

※「長沼守敬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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