長袋村(読み)ながふくろむら

日本歴史地名大系 「長袋村」の解説

長袋村
ながふくろむら

[現在地名]秋保町長袋

秋保郷の中心に位置し、名取川が南東へ流れる。東は境野さかいの村、西は馬場ばば村と名取川支流および山嶺で、南は戸崎とざき川で柴田郡本砂金もといさご村・小野おの(現川崎町)と、北は広瀬川で宮城郡くま村・芋沢いもざわ(現宮城町)と接する。北東部は宮城郡上愛子かみあやし(現同上)、北西部は新川につかわ(現同上)と山嶺で接する。名取川沿いに二口ふたくち越出羽道が通る。地名は名取川とその支流おそ沢により、中心部が長い袋状になっていることによるという。元和二年(一六一六)の山岡志摩守知行目録(石母田家文書)に「秋保長袋」とみえ、当村のうち二九貫九四八文が山岡氏の知行地となっている。伝承によれば、平重盛の孫長基が熊野修験阿曼坊宥意を先達として、当村内並木なみきの地へ落ちのびた。その子孫が秋保氏であるという。一方同氏の系図(秋保繁家文書)では、長基の子基盛は永仁三年(一二九五)将軍惟康親王から名取郡を賜って当地に土着し、その孫盛定の代に秋保を名乗ったとある。長館ながたて(現字館)楯山たてやま(現字館山)は同氏の居館跡(仙台領古城書上)。秋保則盛の三男掃部盛頼は領地替となる慶長八年(一六〇三)まで秋保竹野内たけのうち(現字竹ノ内)を領し竹内を称していた(「歴代系図」秋保神社蔵・「仙台藩家臣録」)。秋保氏所替後の寛永元年(一六二四)、長袋の野谷地田七町・畑八町が秋保雅楽頭(定盛)に下されている(「伊達政宗領知黒印状」伊達家文書)。同一九年の検地帳(秋保町資料館蔵)の一部が残る。正保郷帳では長袋宿とみえ田七九貫九九文・畑三三貫六九一文、柴山と注され、ほかに新田六貫六五二文とある。「封内風土記」の戸数一三七。寛政一〇年(一七九八)の人頭一一六人(秋保町史)

承応元年(一六五二)秋保定盛は当村に屋敷を賜った(伊達世臣家譜)


長袋村
ながぶくろむら

[現在地名]白石市福岡長袋ふくおかながぶくろ

南蔵王不忘ふぼう山麓裾野に位置する。北は川・児捨こすて川で八宮やつみや村、東は白石川で白石本郷・小下倉こしたぐら村、西南蔵本くらもと村と接する。西部の山麓高原山根やまね、台地状の中央部を新田にいだ、東部白石川流域の低地帯をおきと古くからよんだ。沖の地区を奥州街道が南北に通る。地名は「観蹟聞老志」に「投嚢邑」と記し、用明天皇の妃が旅中疲労のあまり糒袋ほしいぶくろを投捨てたとし、「安永風土記」には日本武尊の伝説を引き、土地の女が懐妊した際の胞衣が普通の子より長かったのでちご宮社に納めたことによるとする。児宮社は「封内風土記」にはすでに荒廃しているとある。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「九貫文 なかふくろ」「三貫文 下にい田」とあり、新田は長袋とは別に掌握されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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