秋保郷(読み)あきうごう

日本歴史地名大系 「秋保郷」の解説

秋保郷
あきうごう

昭和三〇年(一九五五)までの旧秋保村、すなわち現町域に宮城郡宮城町新川につかわを加えた地域の総称。近世の湯本ゆもと境野さかいの長袋ながふくろ馬場ばば・新川の五ヵ村をさし、秋保五ヵ村ともよばれた。

中世、当郷を領した秋保氏は平重盛の後裔が落ちのびてきたと伝え、永仁三年(一二九五)小松三郎左衛門尉基盛の代に将軍から名取郡を与えられて当郷に住し、その孫盛定の代に秋保氏を称したという。明応九年(一五〇〇)秋保盛房は大曲おおまがり(現名取市)城主長井晴信によって当郷を追われ最上氏を頼って山形へ落ちた。永正一〇年(一五一三)秋保郷民は盛房を慕って蜂起し、盛房はこれに助けられて長井氏の拠る楯山たてやま城を奪回したと伝えられる(「歴代系図」秋保神社蔵)。戦国末期には馬場に一族秋保氏(馬場氏)境野に一族境野氏を配した(仙台藩家臣録)。郷内にある館跡、長楯ながたて(館)城・楯山城・うは(上)館城・豊後ぶんご館・境野城はいずれもこの三家が館主となっている(仙台領古城書上)。秋保盛房が所領奪回を祈願して勧請した諏訪神社(現秋保神社)は、郷の鎮守、三家共通の氏神でもあり、流鏑馬神事の射手は三家の者が勤めたという(「諏訪神社縁起」秋保神社蔵)。伊達氏天文の乱の際、盛房の子則盛は伊達稙宗から親書で協力を求められ、以後その麾下に属した(「伊達正統世次考」天文一二年七月一二日条)。天正一六年(一五八八)には伊達政宗の命を受け、二口峠を越えて伊達氏領へ侵攻してきた最上勢と戦い「山かたしゅ百壱人討取」るなど戦功をあげた(「伊達天正日記」同年五月一日条など)。この頃までの秋保氏は、伊達家に年頭の祝儀を使者を遣わして言上し、その返礼を受けるという関係で(延宝三年「先祖書上」秋保基盛家文書)、また「秋保殿」と殿付けでよばれる半独立領主であった。葛西大崎一揆の際には、騎馬・鉄砲・野臥をとくに大勢率いて参陣するよう要請されている(天正一九年五月二七日「伊達政宗書状」同文書)。天正一九年伊達氏が岩手沢いわてさわ(現玉造郡岩出山町)へ移封された頃から出仕などを勤める家臣となり、一家に列せられた(前掲先祖書上)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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