日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷川堯」の意味・わかりやすい解説
長谷川堯
はせがわたかし
(1937―2019)
建築評論家。島根県に生まれる。1960年(昭和35)早稲田大学第一文学部卒業後、『SD』誌編集部などを経て、建築批評活動を始める。1977年から武蔵野美術大学造形学部助教授、1984年より同教授となる。
1968年『近代建築』誌に「日本の表現派――大正建築への一つの視点」を発表。後藤慶二(1883―1919)や中村鎮(ちん)(1890―1933)、長谷川輝夫(1896―1926)らの活動に光をあて、建築家による自己の探求がやがて個性という独善性に至る過程として、大正期の建築界を描き、再評価した。明治期と昭和期の建築が「技術主義的」「外在的」な性格を共有するとし、大正期を中心とした建築を再評価する立場は、1970年の「大正建築の史的素描」でより明確にされた。明治期と昭和期の建築を「神殿」、大正期の建築を「獄舎」になぞらえ、建築家は「獄舎づくり」の性(さが)をまっとうすべきだと主張、近代合理主義に対する批判を強めている。1969年の「菊竹清訓(きくたけきよのり)における建築の〈降臨〉のゆくえ」は同時代の建築に対する評論だが、建築家が自己を回復するためには、自身の普遍化の願望を放棄しなければならないという主張は第二次世界大戦前期の建築に対する評論に通じるものがあった。これらの論を収めた『神殿か獄舎か』(1972)は、従来の日本近代建築論にない斬新な視点によって注目を浴びた。
続く評論集『建築 雌(めす)の視角』(1973)では、明治期以降、日本の建築のあり方を大きく規定してきた思想を「オスの思想」、大正期の思想を「メスの思想」とよび、昭和期の建築に対する根源的な批判は「メスの思想」の存在のみによって可能であるとして、その思想の特徴を「自己性」「想像性」「身体性」と規定した。長谷川の評論は近代合理主義批判の書として読まれ、鋭い語法とあいまって高い評価を受けた。
その後も豊かな細部をもち、感性に働きかける建築の魅力を語り続けた。建築や街並みの保存についても積極的な発言を行い、都市のあり方に新たな視野をひらくのに大きな貢献を果たした。毎日出版文化賞を受けた『都市廻廊』(1975)は、「中世主義」をキーワードに都市や建築を論じたもので、江戸・東京の都市環境における「水」の役割を先駆的に取り上げ、また、村野藤吾に対して本格的な評論を行った。サントリー学芸賞を受賞した『建築有情』(1977)では、都市や建築の細部に目を向け、歴史の積み重ねによって生まれる豊かな情感を描いた。『議事堂への系譜』(1981)では、明治期の建築における日本趣味の系譜に新たな光を当てた。そのほか、『生き物の建築学』(1981)、『田園住宅』(1994)などの著作がある。1986年「日本近代建築史再考に関する評論活動」で日本建築学会賞受賞。
[倉方俊輔]
『『神殿か獄舎か』(1972・相模書房)』▽『『建築 雌の視角』(1973・相模書房)』▽『『日本の建築明治・大正・昭和4 議事堂への系譜』(1981・三省堂)』▽『『田園住宅――近代におけるカントリー・コテージの系譜』(1994・学芸出版社)』▽『『都市廻廊――あるいは建築の中世主義』(中公文庫)』▽『『建築有情』(中公新書)』▽『『生きものの建築学』(講談社学術文庫)』