関宿城跡(読み)せきやどじようあと

日本歴史地名大系 「関宿城跡」の解説

関宿城跡
せきやどじようあと

[現在地名]関宿町関宿町など

北を利根川、西を江戸川で画する平城で、中世簗田氏・北条氏の関宿城を継承する。関宿藩政庁で、城の基本的な縄張りは天正一八年(一五九〇)入部した松平(久松)康元によって行われたと考えられるが、詳細は不明。正保城絵図(内閣文庫)では利根川・江戸川を堀として、北端本丸、その南に二の丸、本丸・二の丸の東に三の丸を配し、本丸の北・東・南の三方、本丸・二の丸と三の丸の間にも堀がめぐる。また川を挟んだ西方山王さんのう(現茨城県五霞村)地内にも郭(山王郭)を配している。各郭は土塁で囲まれ、また城郭の南東には土塁で取囲まれた侍屋敷地が広がっていた。大手門は武家屋敷地の南東端に位置し、町人町の江戸えど町に通じていた。川の流れのない城郭の南方、および東方には寺院を多く配している。寛文一一年(一六七一)本丸に三層櫓が新築された。元禄年中(一六八八―一七〇四)以降のものとみられる城絵図(浅野文庫蔵)では二の丸は侍屋敷地となり、三の丸には蔵が置かれている。明治七年(一八七四)頃から城の取壊しが行われ、現在は数次にわたる江戸川改修工事によりその過半は川敷となり、城跡の面影はほとんどない。千葉県立関宿城博物館が建てられている。

〔歴代城主〕

天正一八年徳川家康の異父弟松平康元が下総国葛飾郡内二万石を与えられて入封。翌一九年陸奥九戸一揆の鎮圧に出陣、帰国後二万石を加増された。元和元年(一六一五)康元の子忠良は大坂夏の陣に参戦、翌二年一万石を加えられ、美濃大垣おおがき(現岐阜県大垣市)に移封。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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